2018年12月8日土曜日

友達のいない風景・5

 11月はこのブログにいちども記事を投稿しなかった。まあこのブログに限らず、全体的に投稿数は減ったのだが、その原因はと言えば、「cozy ripple流行語大賞」の銓衡のために、1年間の記事を読み返していたからだった。それに単純に時間が取られてしまったというのもあるが、しかしその作業中は、「友達について、そのいなさについて」がテーマのこのブログに、心の叫びを綴らねばならないという衝動に駆られなかった、というモチベーションの要因も大きいと思う。
 僕は、僕の書いた日記をがんばって読んでいた11月の上旬から中旬にかけて、自分に友達がいないつらさを、忘れることができていたのだ。
 つまりそういうことなんだな、と思った。結局のところ友達というのは、熱中できることのない、茫洋とした精神のたわみの、たわんでできた間隙にずぶずぶともぐり込んでくる、蛭や蛆虫のようなものなのだな、と改めて思った。ファルマンを見ているとよく分かるが、本当に隙のない、高まるところまで高まった孤高の存在には、友達なんてぜんぜん必要ないのだ。そんな邪なものたちが近寄ろうにも、ファルマンという存在には、掴まれる突起がひとつもない。それはもはや完全なる球体に近く、そして発光してさえいる。神々しいまでである。もちろんそこまでの境地には生半には至れるものではない。
 僕に友達がいないのは、人生中で出会ったどの人物も、難攻不落のこのコース、すなわち俺レースをクリアできなかったということだ、ということをこれまでしばしば口にしてきた。つまり僕もまた、それなりに表面がツルツルとした、よくできた造形のほうなのだと思う。でもファルマンほど完璧じゃない。よく見ればあちこちに凸凹があって、その凸凹は傍目にはなかなか見えづらく、だから他者はそれに気づかない。でも僕は本人なので、その凸凹のことをよく知っている。知っていて、とても気にしている。コンプレックスと言ってもいい。だから時折その凸凹を埋めたいと切望して、友達を求めてしまう。友達とは、心の凸凹を均すセメントなのかもしれない。
 でもセメントは後付けのものなので、きちんとメンテナンスしないと、すぐに摩耗して、劣化する。それが、いたはずの友達がいなくなるということだ。そのとき、セメントはセメントだけで滑落すればいいものを、埋めていた心の一部を荒らしていったりする。そうすると余計に心には凸凹が醸成される。
 だからやっぱり、理想はファルマンのように、自力で心を球体に近づけることだ。自分は裏切らない。筋肉だって栄養を与えていなければ消え去ってしまうのに対して、自分だけは本当に裏切らない。だから僕は自分をもっと高めていこうと思った。この1ヶ月、自分のブログばかりを読んで、それはとても愉しい時間で、それでそう思った。
 そして僕の僕らしさ、僕という人間のテーマというのが、「友達について、そのいなさについて」だったりするから、この話はややこしくなるのだった。僕の精神はいつ、4人くらいに分裂して、みんな僕の友達になってくれるのだろうか。