2023年5月16日火曜日

微妙な関係性と屈託

 ポルガが春から通い始めた中学校で、授業参観があり、ちょうど行けたので僕が行った。入学式には行かなかったため、初めて敷地内に入った。
 ちなみにこの中学校は、ファルマンら3姉妹が通った所とは別なのだが、実は次女の夫の母校だったりする。なので、校内の写真を撮って送ってやったら喜ぶかな、という考えが一瞬だけ頭に去来したが、たぶんそこまでいい反応は返ってこないだろうと思ってやめた。先ごろのGWでこちらにやってきた次女一家は、夫側の実家だったり、そちらの一族と広島にカープ戦を観に行ったりで慌ただしく、ほとんど絡まなかったのだが、それにしたって彼と僕の仲の深まらなさと来たらどうだ、と思った。3姉妹のそれぞれの夫として境遇を同じくし、互いに妻には言いづらい愚痴など言い合ったりして、深めようと思えば深められそうな間柄なのに、もうかれこれ10年くらいの親戚関係になるが、まったく距離が縮まらない。縮まらないどころか、双方10年前よりも年を取り、屈託が増したため、なんだかますます距離は広がり、淡白な関係性になっているのだった。久々に顔を合わせても、いつも「道、混んでた?」くらいの話題しかない。たぶん10年後も20年後もそんな会話しかしないんだろうな、と思う。
 彼の母校だという一応の導入はあったとはいえ、なんでこんなに冒頭から話が脇道に逸れるのかとお思いだろうが、この記事がアップされているブログがなんなのかを見れば一目瞭然なことに、実は話の主題は娘の授業参観ではなく、人間関係における屈託なのである。だから脇道かと思いきや、このクソみたいにくすんだ道が、正しい道だったのだ。
 授業参観のあとは、部活動ごとの保護者説明会があり、そちらにはファルマンが出席した。そのふたつが終わった帰りの車内で、ファルマンとふたり、「嫌だったねえ」としみじみと語り合った。
 なにが嫌だったかって、知らない大人の人たちが嫌だったのだが、別に(少なくとも僕は)、他者なら誰でも嫌だ、というわけではない。スーパーで買い物をしていて他の客が嫌だとか、プールで隣のシャワーを使っている人が嫌だとか、そういう感情は抱かない。たぶん互いの子どもが同じ集団に属しているという、まったくの他人というわけではない微妙な関係性によって、この嫌さは発生しているのだと思う。実質的にはまったく無関係の、スーパーやプールのそれと同じ、言わば「存在を認めていないもの」として処理したいはずの対象なのに、保護者としてそういうわけにはいかないという事情があるため、頭の中で混乱が起るのだ。喩えるなら、「もののけ姫」の、猪の皮を被った人間のような薄気味悪さだ。他者は入れないはずのパーソナルエリアに、子どもが同じ集団という猪の皮を被って、知らない大人たちが入り込んでくる。
 パーソナルエリアに入り込んでくる知らない大人の、顔も、声も、もちろん嫌なのだけど、特に嫌なのは、肉体だ。体って、現実のものすぎて、僕にとって微妙な関係性の存在が持つのには向いていないと思う。体は破棄してほしい。もちろんこの感覚は、それこそお互い様だろうと認識しているので、僕も破棄する。学校の保護者の感じは、コロナ禍のままでよかった。なにも一緒に活動したくない。