2023年3月4日土曜日

人生と友達

 おもひでぶぉろろぉぉんという、過去の日記を読み返す作業をしている。いま読んでいるのは、2005年10月。22歳、大学4年生である。
 読んでいて感じたこととして、この時期、僕は「友達がいない」という発言を一切していない。それもそのはずだ。友達的な存在は、当時それなりにいた。大学にもいたし、バイトをしていた本屋にも同世代の学生バイトが何人かいた。もちろんそこまで積極的な、一緒に海に行ったり、バーベキューをしたり、みたいな付き合い方ではなかったけれど、それでもやっぱり彼らとの関係性は、友達以外の何物でもなかったと思う。
 だけど当時のそれらとは、いま完全に関係が断たれた。見事なまでにだ。当時はまだSNSが今ほど発展していなかったというのもあるかもしれない。もっともSNSがなくたって、長年に渡って繋がる人は繋がるわけで、SNSの未発達は単なる言い訳に過ぎず、要するに僕がそういう選択をしたというだけのことだ。
 今はもう達観したけれど、「友達がいない」という悩みは、30代前半あたり、僕をかなり苛ませた。友達がたくさんいるほうの人生に較べて、友達が一切いない僕の人生は、とても薄っぺらいものなのではないか、などと思い悩んだ。重ねて言うが、今はもう達観した。悩んでいた事柄に関しては、別にそんなことない、と力強く答えることができる。
 だからもう友達はいてもいなくても構わないのだが、僕に友達ができる目は当分ないだろう。これがまた相当な年寄りになってくれば、もしかすると事情が変わってくるのかもしれないが、壮年期、中年期はまずあり得ないと思う。
 この15年でなんど引用したか知れないが、「君に届け」の中のセリフで、「友達ってね、気付いたらもうなってんの!」というのがある。そうなのだ、友達というのは、作ろうとして作るものではない。キキがあえて飛ぼうと意識せずとも飛べたように(意識してしまった途端に飛べなくなったように)、若者はあえて身構えなくても友達を作ることができる。でもそれは、これも何度も言っているように、足りないものを補い合うための、共助的なものに過ぎないと思う。人という字は、人と人が支え合って成り立っている、というクソみたいな嘘があるけれど、友達こそそれだと思う。
 ただし若者でなくなったら、足りない部分がなくなって、ひとりで生きていけるようになり、友達という拠り所が必要なくなるから、友達が作りづらくなる、ということかと言えば、もちろんそんなこともない。大人の僕も傷ついて眠れない夜はあるけど苦くて甘い今を生きているのだ。でも、それじゃあ友達を頼ろう、ということにはならない(なる人も当然いる)。
 樹木希林は結婚について、「若いうちにしなきゃダメ。物事の分別がついたらできないんだから」と言ったそうだが、まあ至言だろうと思う。そしてそれは、結婚に限らず、大抵の人間関係について言えることだと思う。結婚相手ほどではないけれど、友達だって、いい大人になってからだと、さまざまな思慮分別によって、選定が厳しくなる。ただでさえ出会う数が学生時代よりも少ないのに、その上選定が厳しいのでは、無事にゴールにたどり着く者など、奇蹟でも起らない限りいるはずがない。
 そしてやはり、僕の身に奇蹟は起らない。起っていない。学生時代の友達たちは、みんな僕の人生から消えた。彼らの人生からも、僕は消えた。人は、自分が戸籍として生存していても、誰かにとっては死んでいたり、あるいはその逆もある。だとすればもう個々の生死など関係ない。我々は一個のコスモゾーンなのかもしれない。