2018年4月27日金曜日

友達についての思索・8

 LINEを始めたことで、すごくドキドキしている。
 そもそも据え置き型として生み出されたロボットが、あるとき博士の気まぐれで足のパーツを取り付けられて自由に動けるようになって、「わあ、僕はどこへでも歩いていけるんだ!」と大喜びするような、そんな気持ち。世界は光輝いていて、その中へ飛び込んでいける幸福感に、全身が埋め尽くされている。
 これまでは手段がなかった。友達が欲しいと切望しても、手も足も出なかった。でもいま僕にはLINEがあるのだ。あの、友達のいる人たちが、友達と連絡を取り合うときに絶対に使うツール、LINEが。それじゃあ僕には、友達ができる、可能性がある。これまでなかった、可能性が生まれたのである。その可能性は爆発性を帯びていて、ある瞬間にドドドドド、と友達が増えるかもしれない。ちなみにファルマンはこのたび、ピイガの幼稚園のクラスの、お母さんたちで構成されるグループLINEに参加し、一挙に25人もの人間と関係を持つことになった。に、に、25人!
 だけどロボットはすぐに気がつくのだと思う。脚を動かすのはとても疲れるということに。これまでは小さなソーラー発電で何日間も賄えていたバッテリーが、頻繁に充電しなければならなくなってしまった。充電中は電源をオフにしなければならない仕様なので、そのせいでなんだか一日がとても短くなってしまった。しかも実際に出歩いてみれば、外の世界というものは思ったほどいいものじゃない。整然としていて美しかった博士の研究所に対して、外界はあまりにも混沌としているのだった。もちろん感動するほどきれいなものもあるけれど、それと同じくらい、いやそれ以上に、見たくないものもたくさんあった。知りたくないこともたくさんあった。レンズの瞳で夕焼けを眺めながら、ロボットは思う。あーあ、僕は脚がなかったときといまと、どっちがしあわせなのかなあ。
 25人のLINEグループでは、早くも中心人物的な人ができていて、しかし絶対にその雰囲気を快く思わない層というのも一定数いるはずで、その一定数が集って密かに集って新たなLINEグループを作る、なんてことは容易に起り得そうで、なんかそういうの、えげつないとも思うし、人類愛、人間讃歌を謳う人間としては、とても愛しくも思う。
 でもこれだけは心の底から思うこととして、僕は学生時代にLINEがなくてよかった。

2018年4月15日日曜日

友達についての思索・7

 タブレットを持つ。ガラパゴスケータイを保持したまま、ポータブルパソコンとしてタブレットを持つことにしたのだった。
 タブレットでLINEとかを始めることで、ガラケーのほうのメール機能はまったく必要なくなったので、月々300円ほど掛かっていたそちらの契約は解除した。だからガラケーは本当に電話番号で電話をするだけの、「距離の制限なく使える子機」みたいな感じになった。そもそもが骨と皮だけのような、月々1000円掛かるかどうかみたいな契約だったのが、これによって完全にミイラのごときレベルになった。たしかに生命であったという痕跡だけが残っているような状態。
 auの窓口で手続きを頼んだら、とても簡単に、「じゃあ今からメールはできなくなります」という感じで、機能をストップされた。それで問題はないのか、なにしろこれまでLINEをしていなかった人間であるわけだから、メールアドレスでしか繋がっていない関係性だってあるわけだろう、そういう人たちに対しての断りは必要ないのか、という話だが、どっこい問題はないのである。まず前提として友達の絶対数が少ないのに加え、この数年の世間のメール離れ、LINEガバガバな風潮によって、こんな僕とメールで繋がりを継続し続けてくれるような関係性の人は、母と姉を除けば(ファルマンとはショートメールを使っていた)、ただのひとりもいなかったのである。だからとても身軽に、auのメールアドレスを破棄することができた。この身軽さこそが、人間関係ミニマリストの身上だ。
 と言いつつタブレットでLINEを始めるのだから矛盾しているわけだが、これは世間の荒波と言うか、社会人としての事情なども関わってくるので、個人の信念とは関係のないどうしようもない部分なのである。ただしLINEは電話番号でするわけではないので、そうガバガバと人(特にこれまでの人間関係)と繋がるわけではなく、ある程度の選別ができるらしく、それも大事だと思ったため、こうしてスマホ1台ではなく、ガラケーとタブレットの2台持ちの状態を選択することにしたのだった。ちなみにふたつ合わせても格安スマホの契約より少し安いくらいである。
 もっとも徹頭徹尾、タブレットを持たざるを得なくなった今回の状況に対して忸怩たる思いかと言えば、もちろんそんなことはない。スマホというものにはどうにも魅力を感じることができないのだが、ファルマンが僕に先んじてこの2台持ちの状態となり、その様をすぐ傍で眺めてきた結果として、タブレットはあるとよさそう、タブレットを持つことを想像するとワクワクする、と感じていた。それはタブレットが、進化したケータイではなく、ノートパソコンの亜種だから(あくまで個人的な見解として)で、ノートパソコンの亜種が30000円あまりで買えるのだから、かつてノートパソコンしかなかった時代に較べ、現代はとても買い時なのではないかと思う。そしてノートパソコンの亜種として持つので、当然キーボードは必要になってくる。あんな画面上の平面のキーなんか打てない。あれはスマホ側の文化だから、唾棄すべきものだ。だからキーボードも買った。それも携帯用ではあまりない、折り畳みとかフニャフニャとかそういうんじゃない、けっこうちゃんとしたキーボード。それでキーボードを選んでいたとき、マウスとセットの商品なんかもあって、ファルマンに「マウスもいるかな?」と訊ねたら、それはさすがに呆れられた。しかしスタンド台は買った。ただ傾けるだけはなく、なるべく画面を目線の高さにしたくて、書見台のようなやつを注文した。書見台のようなやつにタブレットを置き、キーボードを接続して、そうして僕のタブレットスタイルは完結するのだと思う。我ながら旧時代感がとてつもないと自覚している。もうパソコンの所で止まってしまって、それ以上のテクノロジーは受け入れられないのだと思う。仕方がない。誰か友達になってください。LINEしようぜ!

2018年4月2日月曜日

友達についての思索・6

 どういう話の流れだったのか、その場にいなかったので判らないけれど、島根の実家において、「僕に友達がいない」という話題になったらしい(これはいじめではないのか)。そしてその際、あの典型的な友達が多い人種であるところの、僕の姉と同タイプの、あの三女が、不思議そうにこう言ったのだそうだ。
「なんでパピロウちゃん、友達できないのかな。おもしろいし、やさしいし、普通にできそうなのに」
 本当にそう、と思った。本当にそうだ。解る人には解るんだ。日々せっせと誠実に生きてきた努力が報われたような気がした。思えばこれまで僕は、切々と気持ちを訴えてもなんの反応もないブログや、僕よりも多少友達はいるけれど僕よりも人類愛が圧倒的に乏しい妻にしか、「友達がいない、友達が欲しい」ということを主張してこなかった。それが間違いだったのだと瞬間的に悟った。向こう側に誰もいないブログ画面や、人間的情緒の欠損した妻に、僕の気持ちも、魅力も、尊さも、受け止められるはずがなかったのだ。僕はこれまで、馬の耳に念仏を唱え続けていたのだ。それに較べて三女の友達の多さ加減と言ったら一遍上人レベルであり、それならば耳元に念仏を唱える意味も出てくる。そしてまっとうな反応が返ってくる。「どうしてかな、おもしろいし、やさしいのに」。この説得力。言われてみれば僕は本当におもしろいしやさしいのに、なんでこんなにも友達がいないのか。これってもしかして、僕が原因なのではなく、人間界だけに収まらない壮大な世界観による大スペクタクルな力によって、ここだけ作用と結果の関係性が捻じ曲げられているのではないか。僕に友達ができないのは、宇宙のバランスを保つための忖度が働いているのではないか。そう思った。思ったと言うか確信した。だってそうでなければどうしたっておかしいもの。だっておもしろいしやさしいのに!
 しかしそんな三女のつぶやきに対して、僕の長女、7歳、ポルガが、こう言ったという。
「だってパパ、プライド高いもん」
 マジかよ、と思った。本をたくさん読む小学生女子なので、普段からとても小生意気だと感じていたが、もう、7歳でもうそんなことを言うのか。そんな、そんなに本質を突くようなことを言うのか。言ってしまうのか。小生意気で、観察眼が鋭く、的確な言葉を知っているのに、思慮だけがまだ嘘みたいに欠如している、とてもおそろしい生きもの。早く、早く、教科になったという道徳の効果が現れてほしい。「事実だからって言っちゃいけないこともある」ということを学んでほしい。
 でもそんな娘の容赦ない言葉の平手打ちによって、目が覚めた。そうだ。友達が多い人種の、「なんで友達ができないのか不思議」発言って、それってよく考えたら別に喜ぶものじゃない。これって本質的には「パンがないならケーキを食べればいいのに」であり、お前に俺たちの苦悩が解るものか! と革命の原動力となる怒りをぶつけるべきだったのだ。満たされている者に、貧しい者の気持ちが解るものか! 危うく騙されるところだった! 武器を持て! 立ち上がれ! 列に入れよ、我らの味方に! 砦の向こうに世界がある! 戦えそれが自由への道!
 僕は誇り高き戦士。けれどいったいなにと戦っているのだろう。