2020年4月17日金曜日

密になりたい人々 その3

 繋がらなろうね症候群の象徴的なものといえば、星野源のあの動画だろう。もう、すさまじい。繋がらなろうね思想の、純度の高い結晶のような企画だと思う。
 後世のために説明すれば、それは星野源がギター1本で奏でる「うちで踊ろう」という歌に、みんなこれに自由に踊りやコーラスを入れてね、といってコラボレーションを募るというもの。これに大勢の一般人はもちろん、俳優やミュージシャン、タレントなども参加して各々の動画を発表し、それをまた大勢の人が観て、褒め合い、笑い合い、大いに盛り上がった、らしい。
 実際にその様子を目の当たりにしたわけではないので、らしい、としかいえない。そのままそっち界隈で朗らかに愉しんでいたのなら、僕はその催しを認知することもなく終わっていただろうと思う。
 しかしそこへ、安倍首相が参加したから騒ぎになった。しかもその安倍首相の動画といえば、いっさい歌に合わせるそぶりもなく、ただ自室でくつろいでいる姿(という演技であるには違いないが)であったから、趣旨を理解していないことに加え、ただでさえ対策が後手後手で不十分だといわれている総理大臣がこんなときになんでそんな優雅にしているのか、ということで、世間は大バッシングとなったのだった。
 そんなわけでこの動画のことも僕の知ることとなった。それで、一部なのか全部なのか知らないが、ニュース映像で流れた実際の映像も目にした。だから「うちで踊ろう」は、僕にとってはじめから安倍首相ありきの楽曲みたいになっている。こういう人はたぶん世間にいっぱいいる。ウェブ上で企画が始まったとき、純粋にその様を愉しんだ人よりも、数十倍も数百倍もいるだろう。
 こんなふうに広く知られなければ、一部の、星野源や大泉洋やバナナマンとかのことが好きな、あのタイプの人々の心がほっこりする心地よい小さな世界で終わったはずなのに、こんなことになってしまったせいで、僕みたいな人間が、わざわざこうして言及したりすることになる。どう言及するか。それはもちろん、その心地よい小さな世界への、嫌悪感についてである。
 安倍首相の動画が優雅すぎるとか、有事の総理としての自覚が足りないとか、そんなことはどうでもいいのだ。そういうのは政治の話だから別の人がすればいい。歌とのコラボっつってんのにぜんぜんやってない、というのも、これがもともと広く一般人も参加した企画であるならば、そんな身勝手なクソみたいな作品を公開した人間は、安倍首相以前にもいくらでもいたはずである。それなりに長くウェブ界に浸っているので、観ていなくてもこれは断言できる。こういうとき、趣旨を理解しようともしないでただ発信する輩というのは、絶対にいるのだ。でも往々にしてそういう輩は無視される。星野源の信奉者たちが求める心地よい小さな世界にそれは不要だし、そもそもあってはならないので、黙殺される。その黙殺というのはとてもシビアで、ロボット社会のように厳しく、清廉としている。なので本来ならば安倍首相のそれも立派な黙殺案件であったろう。しかしながら安倍首相は首相なのだった。首相の発信の攻撃力は高い。さすがに黙殺することのできないその大きなシミに、それまでの心地よい世界はあえなく破綻してしまった。
 今回の件で、僕は学生時代のクラスのことを思い出した。僕の時代にスクールカーストという言葉はなかったけれど、言葉ができる前から厳然としてその仕組みはあった。それで考えたとき、星野源らはクラスの中心のカースト上位の面々だ。星野源にそんなつもりはない、なんてことは知っている。でも繋がっている彼らはどうしたってそうなのだ。そして彼らが教室の真ん中で、ギターを弾いたりダンスをしたりして盛り上がっているのを、僕は隅っこの自分の席で、必死に無視して別のことをしている。うるさくてしょうがないが、彼らは集団で、独特のノリがあるため、とにかく絡まないのが正解だ、と諦観している。そこへ颯爽と現れたのがクラスメイトのAくんだ。Aくんはいいとこの坊ちゃんで、どこか浮世離れしている。そういう教育を受けているのか、彼は場の空気なんて一切考慮せず、自分の思った通りに動く。しかしそれがかっこいいかといえばそんなことはなくて、やることは基本的にダサく、見ているとしょっぱい気持ちになる。そんなAくんが、「僕もやるよ」といって、星野源たちのグループに無邪気に乱入する。すると、Aくんの持つ、なにもかもをしょっぱくさせる能力によって、あんなにきらめいていた星野源たちの活動も、一気に色褪せる。場は急速に盛り下がる。星野源たちの取り巻き、ギターを弾いたり、踊ったり、実はそういうのを一切していなかった、手拍子を打っているだけだった(これをファルマンに話したら、「そういう人たちのことをキョロ充っていうんだよ」と教えてくれた)人たちは、ブーブーAくんに文句をいう。星野源はさすがだ、面と向かってAくんを糾弾したりしない。でもすっかり輝きは失せてしまった。どうしようもない空気になった教室で、Aくんだけがきょとんとしている。僕はそれを遠くから眺めて、とても愉しい気持ちになる。Aくん、よくやった、と思う。
 この話に基本的に悪者はいないのだけど、しかし参加する人を選ぶなら、Aくんに参加してほしくなかったのなら、やっぱり星野源たちは、教室で騒ぐべきじゃなかった。部室とかカラオケとか、仲間しかいない空間でやるべきだった。そんなことを思う。
 そして僕はAくんの破壊力にすっかり魅了されてしまい、隣のクラスにもAくんを連れていって、「熱男リレー」や、「上を向いてプロジェクト」なんかにもAくんを差し向けて、次々に企画を崩壊させたい衝動に駆られる。集うな! 群れるな! 繋がるな! Aくんはうつけのふりをして、実はそんな信念で行動しているのかもしれません。

2020年4月16日木曜日

密になりたい人々 その2

 有事ということで思い出されるのは、やはり9年前の東日本大震災である。あのときも呼びかけはすごかった。助け合おう、支え合おう、ということが声高に叫ばれ、そのすべてを総括して絆という単語が合言葉のようになった。絆は漢語林で見たら、もととも馬を繋いでおくための縄みたいな意味で、なるほどそれは自己と、それ以外の雑多なものを強制的に結び付ける枷のようなものか、と得心がいったのだった。
 それと今回のコロナウイルス禍には、大きな違いがある。それは、助け合ってはいけない、支え合ってはいけない、手に手を取り合ってはいけない、という点だ。絆どころか、ソーシャルディスタンスである。繋がるな、なのである。
 だから今回のケースで、SNSなどで呼びかけをすることには違和感がある。東日本大震災のときは、それはただ純粋な嫌悪感だったが(僕だって非常時に人々が支え合うことを否定するわけではないが、それにしたってあまりに絆絆うるさかった)、今回は性質が異なる。だっていわば彼らは、繋がらないようにしようね、ということで繋がろうとしているのだ。それは本当に意味が分からない。あなたもう体重がひどいことになって命に関わるからしばらく絶食ね、といわれた人が、それでもやっぱり我慢できず、カロリーのない食べ物で胃の中をいっぱいにするような、そんなどうしようもないカルマのようなものを思う。そこまでしてその空洞を満たしたいか。カロリーもない、味もない、そんなものを胃の中に入れて、あなたの中のいったいなにが満たされるというのか。きっと本人に訊ねたら、空洞がおそろしくてつい、なんてことをいうだろう。繋がらないようにしようね、ということで繋がろうとするのは、それとまったく一緒だ。つまり有り体にいってしまえば、心の病気だと思う。繋がらなろうね症候群だ。
 本当に人と人との余計な交流を停止させたいなら、もうその考え方から変えるべきだと思う。会いたい人とまた笑顔で会えるように、なんてことをモチベーションにしてはいけない。そういうところから、この対策はほころぶのだ。誰かに会いたいと思う気持ちから解脱しなければならない。
 ちなみに僕は完全にもうその境地に達している。すばらしいことだと思う。いまいちばん世の中に求められている存在だと思う。この高い階梯にいる存在を、人々は称賛し、敬い、崇め、尊び、ちやほやし、友達になってくれたらいいと思う。

2020年4月14日火曜日

密になりたい人々 その1

 去年の5月に、筋トレの望外の効能として友達を欲する気持ちが掻き消えて以来、ほぼ1年ぶりの投稿である。
 思えばその1年前と世界はだいぶ変わった。主にこの3ヶ月ほどで変わった。新型コロナウィルスの世界的な流行により、各地で緊急事態宣言や都市封鎖がなされ、企業も店舗も教育機関もなるべく休むよう指示が出され、とにかくこれ以上感染を広げないためには人と人との接触を減らすしかないという、わりと原始的な方法で、世界はこの難局を乗り切ろうとしている。まさにいまその真っ最中に、この記事を書いている。
 外出制限を掛け、人と人との接触を減らそうと叫びながらも、ことはなかなか思うようには運ばない。現場に赴かなければならない労働があるのは当然だし、日々の買い物もどうしたって必要だ。そういうのは「仕方ない」。しかしこの期に及んで「仕方なくない」用件で外に繰り出す人間もいる。
 どういう人間か。
 友達と遊ぶのが好きな人間である。
 「STAY HOME」「うちで過ごそう」をスローガンに、なるべく家の中で愉しく暮そうよといっているのに、彼らはなんやかや理由をつけて外に出る。なぜか。友達と遊びたいからだ。友達と遊ばないと心身がその形を保てないからだ。
 でもそこをいまは我慢しようよ、ともう一方の世間の人々は呼びかける。また遊びたい人とまた遊べるように、いまは我慢しよう、などと諭す。
 この話には、「外に出て遊びたい人々」と、「それの我慢を呼びかける人々」という、2種類の人間がいるように見える。実はそんなことない。僕にいわせればこれは1種類だ。いま無鉄砲に外に出て遊んじゃう人種と、いまは我慢してあとでみんなで気持ちよく遊ぼう(だからいまはインターネットで繋がっていよう)、と呼びかける人種は、僕の中でなんの差異もない。まったく同じ区分である。
 そもそも、呼びかけってなんだよ、と思うのだ。ひとりひとりが自分なりに我慢すべき部分を我慢すればいいだけの話なのに、なにをお前らは呼びかけるのか、と思う。それは結局、他人のことを頭から信用していないということの証左で、阿呆で情弱なお前らに優秀な俺様が啓蒙してやるけれども、という、とても高慢な態度であると思う。だから呼びかけている文面を目にしてしまうと、とても馬鹿にされた気持ちになる。自分のことを客観的に見ることができる人間は、ふつう呼びかけない。おこがまし過ぎる。もっともこの行為に客観的な要素が入るはずがない。なぜなら、「いまは家にいよう」という彼らの呼びかけは、本当は友達と遊びたくて仕方ない彼らが、自身に向っていっているものだからだ。だからこのスローガンは、「過ごそう」「いよう」ではなく、「過ごします」「います」ならばいい。なぜ宣言する必要があるのか知らんが、勝手にすればいい、とこちらは思う。それをわざわざ呼びかけ口調にするのは、克己心が弱く、周りを巻き込まなければ誘惑に負けてしまうからだろう。そのくらい、彼らは友達と遊びたいのだ。
 それは異常だろう、と僕は思う。