2020年4月16日木曜日

密になりたい人々 その2

 有事ということで思い出されるのは、やはり9年前の東日本大震災である。あのときも呼びかけはすごかった。助け合おう、支え合おう、ということが声高に叫ばれ、そのすべてを総括して絆という単語が合言葉のようになった。絆は漢語林で見たら、もととも馬を繋いでおくための縄みたいな意味で、なるほどそれは自己と、それ以外の雑多なものを強制的に結び付ける枷のようなものか、と得心がいったのだった。
 それと今回のコロナウイルス禍には、大きな違いがある。それは、助け合ってはいけない、支え合ってはいけない、手に手を取り合ってはいけない、という点だ。絆どころか、ソーシャルディスタンスである。繋がるな、なのである。
 だから今回のケースで、SNSなどで呼びかけをすることには違和感がある。東日本大震災のときは、それはただ純粋な嫌悪感だったが(僕だって非常時に人々が支え合うことを否定するわけではないが、それにしたってあまりに絆絆うるさかった)、今回は性質が異なる。だっていわば彼らは、繋がらないようにしようね、ということで繋がろうとしているのだ。それは本当に意味が分からない。あなたもう体重がひどいことになって命に関わるからしばらく絶食ね、といわれた人が、それでもやっぱり我慢できず、カロリーのない食べ物で胃の中をいっぱいにするような、そんなどうしようもないカルマのようなものを思う。そこまでしてその空洞を満たしたいか。カロリーもない、味もない、そんなものを胃の中に入れて、あなたの中のいったいなにが満たされるというのか。きっと本人に訊ねたら、空洞がおそろしくてつい、なんてことをいうだろう。繋がらないようにしようね、ということで繋がろうとするのは、それとまったく一緒だ。つまり有り体にいってしまえば、心の病気だと思う。繋がらなろうね症候群だ。
 本当に人と人との余計な交流を停止させたいなら、もうその考え方から変えるべきだと思う。会いたい人とまた笑顔で会えるように、なんてことをモチベーションにしてはいけない。そういうところから、この対策はほころぶのだ。誰かに会いたいと思う気持ちから解脱しなければならない。
 ちなみに僕は完全にもうその境地に達している。すばらしいことだと思う。いまいちばん世の中に求められている存在だと思う。この高い階梯にいる存在を、人々は称賛し、敬い、崇め、尊び、ちやほやし、友達になってくれたらいいと思う。