2018年2月28日水曜日

友達についての思索・5

 友達を作るにはフットサルをすればいいらしいけどフットサルはまず友達が誘ってくれないと始められないとか、バブルサッカーをしたいけど一緒にROUND1に行く友達がいないとか、これまでFIFA的な方面でいろいろ思い悩んできたけれど、最近になってこう考えた。
 これから人に「趣味はなんですか?」と訊ねられたら、こう答えることにしよう。
「サッカー、ですかね。最近はフットサルも」
 もう実際にスポーツとしてのそれを行なった行なっていない、というのは大した問題ではない。もちろん細密に言うならいちども行なっていない。しかしもともと僕は、ブロガー・プロペ★パピロウとしての面しか知らない人からは意外に思われるかもしれないが、現実の対人での会話においては、とても言葉足らずな人間なのである。スタップではない本物の他人と相対すると、伏し目がちになり、なるべく早く会話を終わらせてその場を立ち去りたくなる性分なのだ(しらふの場合は)。
 だから言葉の本意としては、
「(バブル)サッカー(を友達とROUND1に行ってやるのを夢想すること)、ですかね。最近は(自分を)フットサル(をやるタイプの人間だと信じ込む遊び)も」
 なのだが、括弧内の文言は割愛して発するのである。割愛とは、なぜ「愛」なのか気になって辞書をあたったところ、「愛執を断ち切ること」だからだそうである。たしかに括弧内の文言は僕にとって愛執であり業の塊のような部分だ。でもそれを泣く泣く切り捨てる。その結果として、趣味を訊ねられた際、
「サッカー、ですかね。最近はフットサルも」
 と答える、NEWSの手越もかくやな快活な人間像ができあがる。そして何度もこう答えているうちに、相手だけでなく、自分自身にもこのレトリックのマジックは効果を発揮しはじめ、僕は僕が、大勢の友人たちとサッカーやフットサルを愉しむほうの人種であると、信じられるようになるのではないかと思う。
 ただしこの戦術に唯一の問題があるとすれば、これからの後半生において、僕に気さくに「趣味はなんですか?」と問いかけてくる人間は、ひとりも現れないかもしれない、という点だ。と言うよりも、「趣味はなんですか?」と伺いを立ててくる時点で、そいつはもう僕とお近付きになりたいと思っているのは間違いないのだ。ならもう答える必要なんて実はない。これだけ言えばいいんだ。「Of course! I know!」と。俺は世界の一部としての君が俺のことを好もしく思っていることくらい、当然お見通しなんだよ、と。そして君という存在を受け入れるかどうかは僕の胸三寸によるんだからね、と。

2018年2月19日月曜日

友達についての思索・4

 夜にひとりお酒を飲んで、とてもいい気分になり、少し身体が浮き上がると言うか、リズムを取るようなフザけた動きをしながら、友達と笑い合いたい気持ちに駆られるときというのがあって、こんなのってもうクラブじゃん、と思った。クラブってこういう気持ちを充足させる施設なわけじゃん。お酒を飲んで軽く酩酊しながら、流される音楽に乗って適当に身体を揺するんだろう、友達と。あのクラブという場所は。なんだそれは。桃源郷か。全知全能か。
 もう34歳だし、岡山県在住だし、友達いないしで、僕はどうやらクラブとは縁を持たないまま人生を終えるのだろうと思う。そういう風に言うと少しだけ哀しい。でも行ったら行ったで、そういう場所にいる人々のことを僕は好きではないだろうから、愉しめないに違いないという確信も一方である。そもそもゲームセンターでさえ、柄の悪さと音の多さで苦手としているのだから、そんな僕がクラブの猥雑さに耐えられようはずもない。でもパピロウ、うちのクラブはそういうのとは違って、音楽を純粋に愉しむところだよ、怖い人とかいないよ(笑)、ともしも説得を試みる人があれば(ないが)、僕は音楽および、映画や小説やファッションや、そういうサブカルチャー的なものの愛好を、他人と共有しようとする人々のことがとても嫌いなので、それもまた嫌だよ、となる。じゃあパピロウ、いったいどんな雰囲気を作れば君は気に入ってくれるんだい、とそれでもまだ縋ってくる人があれば(あるわけないが)、僕は少し考えたあと、やっぱりこう言うしかないんだと思う。
 僕は、僕しかいないクラブにしか行きたくないんだ。
 その瞬間、僕の周りに群がり、なんとか僕をクラブに連れ出そうとしてくれていた彼らは、シャットダウンしたかのようにプツリと姿を消すのだと思う。
 ピイガの入園グッズ購入をきっかけに、父親である僕のもとにマイメロディブームが到来し、携帯電話にシールを貼ったり、メモ帳を鞄に忍ばせたり、ひそかに暮しの中にマイメロディを取り込みはじめている。いまはさすがにまだ自制心があるが、このままだと夏には堂々とTシャツなんか着てしまいそうな気配があり、気をしっかり持とうと思っている。
 そのマイメロディの、キャッチフレーズなのかなんなのか、グッズのデザイン内にたまに見られる共通の英文というのがあって、それが「Hi Melody! Don't you know everyone loves you?」というものなのである。これを見たとき、とてもハッとした。だって「ねえメロディ、みんながあなたのことを好きだって知らないの?」である。なんたる言い回しだろうか。「Everyone loves you!」ではないのである。みんながメロディのことを好きなんだよ、ではなく、メロディはそれを知ってるの? と訊ねるのである。なんだよそのやさしさは。「Everyone loves you!」だって十分に優しいのに、「Don't you know everyone loves you?」を知ったあとでは、少々角ばっているように思えてくる。それくらい「Don't you know everyone loves you?」には、丸いやさしさしかない。どんだけふわふわのもので包むのか、というくらいにやさしい。そもそも「Everyone loves you!」なんてことは、当然なのだ。世界があって、生命たるマイメロディがそれを知覚している、その時点で「Everyone loves you!」は前提としてある。わざわざ言うまでもないのである。この世界で、話の議題に上るとすれば、マイメロディはそのことを知っているのかどうか、ということなのだ。そしてそれを本人が知っていても、知らなくても、やっぱりエブリワンはマイメロディをラブなのだ。絶対的永久肯定。なんたる心地よさか。
 というわけで2018年のパピロウのスローガンは、「「Hi Papiro! Don't you know everyone loves you?」にしようと思ったのだった。僕はクラブには行かないけれど、僕が苦手とする、クラブにいるような人種もまた、僕の世界では、僕のことを愛しているのだ。そして僕はそれを知っている。知っているんだ。「Of course! I know!」と、僕は瞳を輝かせ、言う。何度も何度も、沢山言う。

2018年2月12日月曜日

林田と大津と北橋と滝口と鈴本

 繁華街に出て歩いていたら、道端に、項垂れて座り込むひとりの浮浪者がいて、こんな地方都市に珍しいと思った。本来なら足早に通り過ぎるべきなのだろうが、立ち止まって、ぶしつけと言ってもいい視線を送ってしまったのは、無意識になにか感じるものがあったからかもしれない。俯いているので顔が見えず、そのため年の頃はまるで窺えない。さらにはこの季節のこと、寒さに耐えるためだろう、ありったけの布きれを全身に纏わせていて、素肌という素肌が一切出ていないのだった。男の尻の下には段ボールが敷かれていたが、その程度で寒い今年の冬のアスファルトから伝わる冷気が防げるとは到底思えなかった。やがて男は、目の前で立ち止まった人間の存在に気づいたようで、ゆっくりと顔を上げた。ぼさぼさの髪、伸びっ放しの髭の向こうに現れたその相貌を目にして、僕の口から小さな叫び声が漏れ出た。
「は、林田……っ!」
 ――そう、それは17年前のあの夏、高校2年生だった我々が、いつものメンバーで集い、大津の持ってきた花火をした夜のことだ。大津は少し頭の足りない奴で、花火を持ってきたのはいいが、火もバケツも用意していなかった。バケツはまだしも、火がなければ花火は始まらない。我々の集う雑木林の前の空き地から近くのコンビニまでは、自転車で10分以上もかかった。面倒だが誰かが買いにいかなければならない、とうんざりしたところへ、「火ならあるぜ」と、北橋がライターを取り出してみせた。その夜、我々は初めて北橋がたばこを吸っていることを知ったのだった。かくして北橋のライターで花火に火を点けて、その花火から別の花火へと、火を繋げるようにして我々は花火を次々に灰にしていった。色とりどりの華やかな光を愉しむ余裕などなく、作業のようにせわしなく、ひたすら火が途切れないように努めた。こんな仕事みたいな花火ぜんぜんおもしろくねえよ、と言ったのは滝口だった。でも不思議なもので、それから倍の長さを生きた今でも、花火の思い出と言えばあの夜のことをいちばんに思い浮かべるし、そのときの滝口の口調に珍しく笑いが含まれていたのもしっかりと覚えている。いまの僕がタイムスリップして、当時の我々の姿を見たら、たぶんきらきらと発光していて、まともに見られないのではないかと思う。振り返ることでようやく分かる。人生にはそういう瞬間というのがあるのだ。花火の最後は定番の線香花火。はじめ細く頼りなかった光の尖端が丸まっていき、火球のようになる。それは小さいが、いかんせん軸のない紙の縒りでしかないもので持ち上げるには荷が重い。そのため持っている人間は繊細な動きを強いられて、それまで激しい火花を散らして盛り上がっていた心が、みるみる落ち着いてくる。そしてその落差はどうしたって人の心を無防備にするのだ。だから鈴本はこのタイミングで、両親の離婚により母方の田舎に引っ越すことを我々に告げたのだと思う。高校2年生はあまりにも中途半端な年齢で、選択肢が与えられているようで、実はちっとも与えられていない。なにより家族思いの鈴本が、母親と、小学校5年生になる双子の妹たちの新生活を、すぐそばで支えないという選択をするはずがなかった。我々はみんなショックを受けて、線香花火のかよわい火花が散る、とても小さな音が空き地に響いた。火球の行方を眺めて下を向いていたから、互いの瞳を覗かずに済んで助かったと思った。
 考えてみたらこの話に林田は登場しなかった。林田と滝口はかつて同じそろばん教室に通っていたらしいので、それでちょっと混乱した。

2018年2月3日土曜日

友達についての思索・3

 2次元ドリーム文庫や美少女文庫といった、あの類いの小説のことを、僕は官能小説ならぬ願望小説と呼んでいるのだけど、その願望というのは言うまでもなく性欲のことなのである。そこでは性欲方面の願望を、倫理とか体面とか気にせず、いくらでも充足させていい。そのため主人公は往々にして優柔不断な性格となり、「ひとりなんて選べないよ!」となる。だって幼なじみはもちろん好きだし、クラス委員のお嬢様も魅力的だし、水泳部員の健康的な肢体にも目を奪われるし、後輩のドジっ子もかわいがりたい。その結果、女の子たちは紆余曲折があったりなかったりして、「ほんとにしょうがないなあ、でもそういう優しいところがよくって、私たちみんな好きになっちゃったんだもんね」などと言って、全員で相手をしてくれることになる。ハーレムという願望が叶う。いいな、と思った女の子が、みんな俺にぞっこんで、ぞっこんらが存分にぞっこんぞっこんしてくれる。とても平和な世界である。嫌な人なんてひとりも出てこない。
 そんな願望小説の方法論は、性欲以外にも応用できるのではないか。たとえば僕は常々言っているように、友達が欲しいのである。それはもう、中学生の男子が、「家に帰ったら間違えて未来の配送センターからセクサロイドが配達されてねえかな……」と乞い願うほどに、友達が欲しいのだ。職場であれから5人以上の人に「ROUND1に行ったことはあるか」「バブルサッカーしたくないか」という話を振ったが、ひとりの口からも「それじゃあパピロウさん一緒に行きましょうよ」という応答はなかった。現実はかくもつらい。中高の6年間で、結局いちども僕の部屋にセクサロイドは誤配送されなかったように、友達はいつまでもできない。
 それならもう、そんなに熱情があって、そんなに実現しないんなら、もうそれは願望小説の題材だよ、という話だ。いろいろな女の子と、めくるめくおセッセをするエロ願望小説に対して、こちらはいろいろな種類の友達と、めくるめく交遊をする友達願望小説である。
 まず、やっぱり幼なじみがいるだろう。そいつとまず遊ぶ。そこへ、クラス一の人気者が、急に僕と仲良くなりたがる。そいつとも一緒に遊ぶ。続けて、部活でライバル関係にあった奴とも、なんだかんだで打ち解け、一緒に遊ぶ。さらに、委員会に入ってきた後輩もやけに僕のことを慕い、そいつとも一緒に遊ぶ。そうして暮す中、それぞれの予定がかち合ってしまい、「ひとりなんて選べないよ!」ということで、じゃあグループが違うけどみんなで一緒に遊べばいいじゃん、となって、全員でROUND1に行って、ものすごく愉しく遊ぶ。そういう小説。
 勘違いしそうになるが、あくまでBLじゃない。あえて言うならFRIENDS LOVE。FL。友達と遊ぶことなんてカタルシスにならないから物語として成立しない、と思う人は、現実に友達がいる人だろう。いない人なら解るはずだ。みんなで5Pするのと、5人でROUND1に行くのは、まったく同じだと思う。話の最後、大抵ROUND1にみんなで行って遊ぶエンドのレーベル。友達文庫。