2018年7月27日金曜日

友達についての思索・16

 友達ができない。なぜこうもできないのか。
 LINEのやりとりもさっぱりだ。実は岡山の豪雨を心配してくれた東京時代の知り合いが、携帯電話のショートメールで「大丈夫だった?」的な連絡をくれて、ああこれが東日本大震災のときとかにもさんざん繰り広げられた「絆」っていう例のやつだな、と感じ、感じ入って、「大丈夫です。ところで僕、LINEはじめたんですよ! アドレスはこちらです!」と、とてもアグレッシブにLINEの友達を増やしたのだけど、その相手とも、それから互いの子どもの成長などをちょっと報告し合ったあとは、ぜんぜんやりとりをしていない。子どもの話くらいしか話題がないので、それが尽きたらもうどうしようもないのだった。なぜこうも、人となにかを語り合うのが、難しくなってしまったのか。
 僕の数少ないLINEの友達の中で、友達が多いタイプの若者の様子を探ると、彼らというのは得てして、タイムラインの通知をオフにしていない。気に入った投稿であるとか、ホーム画面の変更であるとか、ぜんぶ知らせてくる。びっくりする。そそそそんな自分の内向きの話をこちらに公開されても、こここ困るよ、と思う。どう捉えていいのか分からず、本当に頭が混乱する。あの通知をオフにすることは、満員電車で画面に除き見防止シートを張るのと同じようなことだと思う。自分の興味をそんなあけっぴろげにして、どうするつもりだ、と思う。どうするもこうするも、見た人が「僕もそれ好きなんだよ」「よかったよね、それ」「ウケる」などと反応して、そこからやりとりが生まれるのである。やりとりのとっかかりなのである。ボルダリングで言えばビギナーコースというくらい、彼らにはとっかかりがある。だから攻略が簡単。以前、僕に友達ができないのは、難攻不落の俺レースを誰もクリアできないからだ、ということを主張したことがあった。それで言うと、僕の友達ボルダリングのコースには、あのとっかかりがほとんどないし、あったとしてもすごくおかしな場所についているのだ。だから誰もそれを掴めない。しかもやっとの思いで掴んだら、それは偽物で、握った瞬間にぐしゃっと潰れたりする。そして、それほどの難コースを攻略したとして、特段のメリットがあるかと言えば、そんなことはない。賞品もなければ達成感もない。だったら和気藹々とビギナーコースで愉しんでいたほうがいい。がしっと掴めるとっかかりがたくさんあって、心地よい。なるほどこうすることによって「友達が多い」状態は保たれるのか、と感心する。とは言え自分がそれをするつもりはない。もっともLINE上で記事を読んだり、ゲームをしたり、なにかに応募したりすることはないので、通知をオンとかオフとか言う以前に、通知する内容がない。心電図で言えばツー、となっている状態であり、だからつまり僕の友達生命活動は既にご臨終なのであり、ここからもしも僕に友達がわんさかできることがあれば、それはもはや復活であり、西暦は終わりにして、新たに僕の生年月日からともだち暦が始まればよいと思う。
 ちなみに、そんなことやったって哀しくなるだけじゃないか、と思いつつ、先日ひそかに、プロフィールの生年月日の欄を入力し、タイムラインに誕生日が表示される設定にした。おめでとう、って言って僕のとっかかりを掴んでほしい。メリットはないけど。

2018年7月14日土曜日

友達についての思索・15

 友達が欲しい友達が欲しいと言って、具体的にどんな友達が欲しいのか、ということを熱心に考えた結果、僕が欲しいのは猥談ができる友達なのだ、ということを喝破した。なんかね、結局のところ、僕は猥談だけ話していたい人間なんですよ。もう本当に、他のなんの話もしたくない。ひと晩じゅうずっと、ちんことかおっぱいとかの話をしていたいのだ。そしてそんな晩が365日、何十年もずっと続けばいいと願っているのだ。そしてそれが結果的に、僕なりの平和への祈願になるのだ。という、それくらいにただひたすらに猥談だけしていたいのだ。明石家さんまはどの番組でも恋愛の話ばかりしていてうんざりするが、僕はそれの猥談ver.であると言える。しかし現状、その欲求はぜんぜん満たされていない。さんまはあんなにもどうでもいい恋愛話をすることで、周囲の人々から全力でヨイショしてもらえるというのに、僕は周囲の反応うんぬん以前に、猥談を話す相手がいない。いるわけねえ。おらの村には電気がねえから信号があるわけねえように、そもそも友達がひとりもいないのだから、猥談を話す相手がいるわけがねえのだ。僕はわりときさくに誰とだって猥談を話したいタイプの人間だけど、いつかやっとできた友達がそういうタイプの人間だとは限らない。「友達」というラインをやっと越えた対象から、さらにふるいに掛けなければならないのだ。ちょっと前に、いつもの(友達が欲しいなあ)ということを考えていたとき、頭の中にふと「親友」というワードが浮かんで、すさまじいショックを受けたことがあった。もう何年も「友達」がままならないものだから、そんな言葉はすっかり忘れてしまっていたけれど、そうなのだ、世の中には「友達」の上位的存在である「親友」というものが存在するのだ。そんな高みのことに思いを馳せると、実際にその高みを仰ぎ見たわけでもないのに、なんだかクラクラした。やっとメタルクウラを一体倒したと思ったら、崖の向こうから何百体ものメタルクウラが出てきたかのような絶望感。猥談ができる友達が欲しい、という願望はそれとまったく一緒だ。と言うか、猥談できる友達とは親友のことなんだろう。だとすれば僕はあれか。「友達が欲しい」のではなく「親友が欲しい」のか。おこがましいわ。親友っていうのは友達汁の上澄みなのだから。上澄みだけ手に入れようと思っても不可能。ネギの青い部分とか、豚の骨の髄とか、そういう一見どうしようもないものを煮込んだ末に、上澄みは発生する。だからやっぱり友達は質よりも量なんだと思う。質よりも量の、ドロドロのぐちゃぐちゃしたおぞましいものから、ほんの少しの親友を得たい。それさえ取ってしまえばあとはもう用無し。まかないにでも使えばいいと思う。友達が欲しい!

2018年7月2日月曜日

友達についての思索・14

 今日はやけに友達がいないことが骨身に沁みる日だった。いつもの「ファッション友達が欲しい」とは違って、今日は切実なやつ。人生全体を考えて、暗澹たる気持ちになって、孤独に打ちひしがれてしまうやつ。たまにそういうときがある。ファルマンにそれを話したら、ファルマンでさえ「ああ、たまにあるよね、そういうとき」と言っていた。あのファルマンでもあるのだから、すべての人類にあるということだ。こういう気分のとき、人はぬくもりを求めて自棄な行動を起したりするのだろう。ならば僕は、そういう状況に在る人々の、宿り木になりたい。あなたが自分はひとりぼっちだと哀しみに浸っているとき、実は心に寄り添っている存在がある。それが僕だよ。僕か、あるいは親鸞だよ。
 そんな今日の夕飯のあと、ポルガがなぞなぞの本から問題を出してきて、その1問目が「殻に閉じこもってばかりで外に出てこないという暗い生き物は?」というものだった。「それは……俺のことだ」と僕は答えたのだけど、7歳の娘は僕の心情なんかまるで慮ってくれずに、「ブー! 正解はでんでん(出ん出ん)虫でした!」と明るく言ってきた。子どものこの残酷さ。さらに2問目が、「道具を使わずに、どんなに嫌なものでも一瞬で消してしまう方法は?」というもので、そ、そんないい方法がなにか存在するのか!? と色めき立ち、本気で考えた結果、「わかった! 目をつむればいいんだ!」と正解にたどり着き、それはたしかに正解だったのだけど、正解した嬉しさよりも、問題とその答えの内容の切なさのほうが心に迫ってきて、思わず目をつむって耳を塞ぎたくなった。
 そうしてしばらくそのままでいて、気が済んで目を開けたら、僕の周りを幾重にも友達が囲んで、みんな笑っていればいいと思った。友達がいてくれたらいいと願うのではなく、その友達たちが笑っていてくれればいいと望むところに、僕の美徳がある。しかし美徳のある人間に、現世は友達をもたらさない。なぜなら友は類によって呼応するものだからである。現世に美徳のある人間など、もう僕しか残っていない。だから僕には友達ができないのだと思う。僕もあなた方のように穢れていれば、あなた方と仲良くできたことだろうに。残念です。