2018年7月14日土曜日

友達についての思索・15

 友達が欲しい友達が欲しいと言って、具体的にどんな友達が欲しいのか、ということを熱心に考えた結果、僕が欲しいのは猥談ができる友達なのだ、ということを喝破した。なんかね、結局のところ、僕は猥談だけ話していたい人間なんですよ。もう本当に、他のなんの話もしたくない。ひと晩じゅうずっと、ちんことかおっぱいとかの話をしていたいのだ。そしてそんな晩が365日、何十年もずっと続けばいいと願っているのだ。そしてそれが結果的に、僕なりの平和への祈願になるのだ。という、それくらいにただひたすらに猥談だけしていたいのだ。明石家さんまはどの番組でも恋愛の話ばかりしていてうんざりするが、僕はそれの猥談ver.であると言える。しかし現状、その欲求はぜんぜん満たされていない。さんまはあんなにもどうでもいい恋愛話をすることで、周囲の人々から全力でヨイショしてもらえるというのに、僕は周囲の反応うんぬん以前に、猥談を話す相手がいない。いるわけねえ。おらの村には電気がねえから信号があるわけねえように、そもそも友達がひとりもいないのだから、猥談を話す相手がいるわけがねえのだ。僕はわりときさくに誰とだって猥談を話したいタイプの人間だけど、いつかやっとできた友達がそういうタイプの人間だとは限らない。「友達」というラインをやっと越えた対象から、さらにふるいに掛けなければならないのだ。ちょっと前に、いつもの(友達が欲しいなあ)ということを考えていたとき、頭の中にふと「親友」というワードが浮かんで、すさまじいショックを受けたことがあった。もう何年も「友達」がままならないものだから、そんな言葉はすっかり忘れてしまっていたけれど、そうなのだ、世の中には「友達」の上位的存在である「親友」というものが存在するのだ。そんな高みのことに思いを馳せると、実際にその高みを仰ぎ見たわけでもないのに、なんだかクラクラした。やっとメタルクウラを一体倒したと思ったら、崖の向こうから何百体ものメタルクウラが出てきたかのような絶望感。猥談ができる友達が欲しい、という願望はそれとまったく一緒だ。と言うか、猥談できる友達とは親友のことなんだろう。だとすれば僕はあれか。「友達が欲しい」のではなく「親友が欲しい」のか。おこがましいわ。親友っていうのは友達汁の上澄みなのだから。上澄みだけ手に入れようと思っても不可能。ネギの青い部分とか、豚の骨の髄とか、そういう一見どうしようもないものを煮込んだ末に、上澄みは発生する。だからやっぱり友達は質よりも量なんだと思う。質よりも量の、ドロドロのぐちゃぐちゃしたおぞましいものから、ほんの少しの親友を得たい。それさえ取ってしまえばあとはもう用無し。まかないにでも使えばいいと思う。友達が欲しい!