2022年6月3日金曜日

経ろ

 一時期あれほどまでに僕を狂おしくさせていた「友達がいないということ」が、いつからか完全に気にならなくなって、その証拠としてこのブログの更新頻度もめっきり減って、そしてとても愉しく暮していたのだけど、先日ふとした瞬間に、僕とファルマンに友達がいないのは別にもうぜんぜんいいのだけど、それすなわち、われわれ夫婦は、子どもに対し、「親の友達」という存在をまるで与えられないのだな、ということを思った。
 それをファルマンに話したら、「親の友達なんてぜんぜん必要ないよ。私は父親の友達とかと触れ合うの、普通に面倒で嫌だったから」と、さすがのファルマン節だったのだけど、僕のように「友達がいないということ」に苛まれる時期も持たずに、人との交流を全力で拒もうとするファルマンの言葉に、「それもそうだね」とほだされる部分などひとつもなく、もちろん、子どもにしてみればそんなのがただの面倒事だというのは事実に違いないが、それにしたってあんまりに、われわれは子どもに、友達と交流しているところを見せられていないと思う。
 友達と交流しないこと、「友達がいないということ」は、われわれ夫婦が40年近く生きてきて到達した結果であって、はじめからそういうスタンスであったわけではない。いろいろあって導き出された結論だ。しかし子どもにそんなことが解るはずがない。子どもは、自分の両親がそれぞれの友達といるところをほぼ(ファルマンには練馬時代には大学の同窓の友達がいた。僕に関しては完全にない)見たことがないので、人の営みというのはそういうものなのだと思っているに違いない。「友達がいないということ」は普通なのだと。
 実際わからない。友達なんて存在は学校という空間特有のもの、という話もある。なので大人にはいないのが普通という考え方もある。では、子どもが思春期になんなんとする現時点まで、父親の友達という存在を一切知らず、父親が「友達と遊んでくる」とひとりで出掛けたことが完全にいちどもないというのは、普通なのだろうか。その度合は、本当にあまりにも完璧なのだ。完璧に僕は、子どもに他者との交流を感じさせていない。
 こんなことに思いを馳せるのも、こんどポルガが修学旅行に行くのだが、その際の班員で過ごす夜の自由時間が2時間もあるということで、ポルガは「原稿用紙を持っていく」と言い出したからだ。「することがなくて暇だから」と。そうじゃないんだよ、と両親で諭した。その時間は、班のみんなとトランプとかをする時間なんだよ、と。しかし休み時間にはひとり校庭を走るというポルガには、その行為の意味が本当に分からないらしい。「そんなことはしたくない」と反論してくる。それに対しファルマンが言う。「たった1泊の修学旅行の夜くらい、我慢しなさいよ」。
 横でその言葉を聞いて、その言葉のニュアンスがもうアウトなんじゃないか、と思う。クラスメイト友好的に過そうとすることを我慢と言ってしまっている。そこでもう、化け物が被ろうとしていた皮が容易に剝がれてしまった。われわれは、われわれ両親の口からは、友達と過す時間は愉しいよ、という言葉が出てこない。どうしたって出てこないのだ。その言葉がどうしたって出てこない、日本大学芸術学部文芸学科卒の両親に育てられた子どもは、修学旅行の夜のために原稿用紙を持っていこうとする。こうして書くと、親に対して忠実というか、親の影響を強く受け、その生き方を見習おうとしているように見える。それ自体はいいだろう。親の人生を否定する子よりよほどいいだろう。でも、親がいつでも正しいとは限らない。もとい親自体は現状、正しい。しかしそれは先ほども言ったように、40年近く生きた末にそうなっている。子どもがそれをそのまま踏襲していいものではない。両親は交友を、経た上で、今は切り捨てているのだ。どうかそのことを理解してほしいが、子どもにそれは難しかろうとも思う。悩ましい問題だ。