2020年4月14日火曜日

密になりたい人々 その1

 去年の5月に、筋トレの望外の効能として友達を欲する気持ちが掻き消えて以来、ほぼ1年ぶりの投稿である。
 思えばその1年前と世界はだいぶ変わった。主にこの3ヶ月ほどで変わった。新型コロナウィルスの世界的な流行により、各地で緊急事態宣言や都市封鎖がなされ、企業も店舗も教育機関もなるべく休むよう指示が出され、とにかくこれ以上感染を広げないためには人と人との接触を減らすしかないという、わりと原始的な方法で、世界はこの難局を乗り切ろうとしている。まさにいまその真っ最中に、この記事を書いている。
 外出制限を掛け、人と人との接触を減らそうと叫びながらも、ことはなかなか思うようには運ばない。現場に赴かなければならない労働があるのは当然だし、日々の買い物もどうしたって必要だ。そういうのは「仕方ない」。しかしこの期に及んで「仕方なくない」用件で外に繰り出す人間もいる。
 どういう人間か。
 友達と遊ぶのが好きな人間である。
 「STAY HOME」「うちで過ごそう」をスローガンに、なるべく家の中で愉しく暮そうよといっているのに、彼らはなんやかや理由をつけて外に出る。なぜか。友達と遊びたいからだ。友達と遊ばないと心身がその形を保てないからだ。
 でもそこをいまは我慢しようよ、ともう一方の世間の人々は呼びかける。また遊びたい人とまた遊べるように、いまは我慢しよう、などと諭す。
 この話には、「外に出て遊びたい人々」と、「それの我慢を呼びかける人々」という、2種類の人間がいるように見える。実はそんなことない。僕にいわせればこれは1種類だ。いま無鉄砲に外に出て遊んじゃう人種と、いまは我慢してあとでみんなで気持ちよく遊ぼう(だからいまはインターネットで繋がっていよう)、と呼びかける人種は、僕の中でなんの差異もない。まったく同じ区分である。
 そもそも、呼びかけってなんだよ、と思うのだ。ひとりひとりが自分なりに我慢すべき部分を我慢すればいいだけの話なのに、なにをお前らは呼びかけるのか、と思う。それは結局、他人のことを頭から信用していないということの証左で、阿呆で情弱なお前らに優秀な俺様が啓蒙してやるけれども、という、とても高慢な態度であると思う。だから呼びかけている文面を目にしてしまうと、とても馬鹿にされた気持ちになる。自分のことを客観的に見ることができる人間は、ふつう呼びかけない。おこがまし過ぎる。もっともこの行為に客観的な要素が入るはずがない。なぜなら、「いまは家にいよう」という彼らの呼びかけは、本当は友達と遊びたくて仕方ない彼らが、自身に向っていっているものだからだ。だからこのスローガンは、「過ごそう」「いよう」ではなく、「過ごします」「います」ならばいい。なぜ宣言する必要があるのか知らんが、勝手にすればいい、とこちらは思う。それをわざわざ呼びかけ口調にするのは、克己心が弱く、周りを巻き込まなければ誘惑に負けてしまうからだろう。そのくらい、彼らは友達と遊びたいのだ。
 それは異常だろう、と僕は思う。