2019年5月15日水曜日

第一部・完

 半月でみるみる友達が欲しくなくなって、その気持ちは今ももちろん継続していて、それは精神的にも肉体的にも健やかになったからなのだが、その状態になってみて分かったのは、弱った部分のない、友達を必要としない人間というのは、要するに自己愛がとてつもなく強いということなのだ。自分のことばかりが好きで、かまけているので、他者の存在がぜんぜん必要ない。自分以外の第三者のことなんか気にかけてられない。だから友達なんて必要なく、欲しくならない。
 そもそも僕のこれまでの「友達欲しい」は、途中からなんとなく気付いていたが、ただの「慕われたい」という欲望だった。互いに切磋琢磨しあえる仲とか、どちらかが間違ったことをしたときはきちんと指摘しあえる仲とか、そんなものはてんで求めていなかった。僕は大富豪の子息のように、とにかく友達という名の下僕たちから、持ち上げられたかったのだ。それはなぜか。大富豪の子息(のような精神状態の)時代には、それが真の友情ではないということには思い至りつつも、自分がなぜそんな張りぼての称揚を求めるのか、その理由までは解らずにいた。今なら解る。肝臓が弱ってて、常に体が重くてだるくて、腹筋とかもぜんぜんなかったからだ。自身のそういう弱みを実感していたから、誰かに認めてほしかったのだ。要するに承認欲求である。親に愛されない子どもが、よその大人に対して異様に人懐こかったりする、あの現象。僕の友達欲しさはまさにそれだった。満たされない心の隙間を、友達(という下僕)で代替しようとしていたのだ。
 今はもう違う。自己愛に目覚めたから。健全な肉体に宿る健全な精神は、強烈な自己愛でもって自身を賛美し、他者を世界から除外する。こういうことだったのか。これまで僕が友達が欲しい友達が欲しいと嘆くたびに、「意味わかんない、なんで友達なんて欲しいの?」と不思議そうにしていたファルマン。そのやりとりをするたびに、俺はお前みたいな化け物とは違うのだ、人間性を持った人間なのだ、人間ごっこをしているだけの化け物であるお前と一緒にしてくれるな、と思っていたが、ファルマンのような生き物こそ、考えてみれば自己愛の化身と言ってもいい存在であり、他者の排斥に関してはチート並みの能力を発揮するわけで、なるほどだからあの化け物は友達が欲しいなどと思ったことがなかったのか、とようやく得心がいった。僕は凡人なので時間がかかった。
 しかしこうなって問題になってくるのはこのブログである。僕の友達に関する思いの丈を綴るために作られたこのブログは、今後どう運営されるべきなのか。ブログの作者はもはや完全に友達に対する思いを断ち切った。友達界から解脱したのである。だとすれば今後このブログに記事が投稿されることはあり得ないのではないか。
 もちろん、だからってさすがに閉鎖はしない。未来は誰にも予想できない。友達界から解脱した先には、ずっ友界があるかもしれない。それは進んでみなければ分からない。でもひとつの区切りとして、いま僕はこんなことを思う。ブログタイトルの「僕等」は、いったい誰のことだったのか。それはひとつひとつの記事を書いていた当時のそれぞれの僕だったのだと。「僕等」という言葉は、考えてみたら「僕と君」や「僕と彼」を示すには適当ではないと思う。「僕等」は「僕等」なのだ。僕と、僕と、僕で、僕等なのだ。僕等は瞳を輝かせ、沢山の話をしたのだ。それだけはまぎれもない真実だ。