2018年6月23日土曜日

友達についての思索・13

 中国ではスマホひとつでありとあらゆることができるようになっているという話が、最近よく耳に入ってくる。もはやスマホがIDそのものであり、お金のこととか、各種の申し込みとか、全部スマホでするらしい。曰く、中国は国家の成り立ち上、お上に支配されることに対しての人民の抵抗感が低いために、こうまで個人情報をネットワークに直結させることができたのだ、などと言う。たしかに中国人ではない僕の感覚としては、なんとなくその状況に対して抵抗感はある。人生上のありとあらゆることがスマホでできるということは、人生上のありとあらゆることが、政治なり経済なり(そしてこの二者は往々にして結託する)の支配者にさらけ出されるということだ。それは管理じゃないか。そうなるともう人民は、「不穏な動き」ができない。「不穏な動き」とは即ち革命というわけではない。反体制的な発想が、イコール革命へと繋がるわけではない。そんな滾る熱い想いなどないが、国家の管理下からはなるべく逃れて生きていきたいというスタンスが、そういう環境では許されないということになる。そこに強い抵抗感が湧く。スマホを管理されるということは、SNSなどでの人間関係も知られるということであり、実際にもう中国では、SNS上での人脈の広さ、およびその人脈の質(年収とか犯罪歴とか)によって、コミュニティにおけるその人物の相対的な価値が算出され、その価値によって入場が許されるエリアであるとか、受けられる特典とか、そういう差別がなされているらしい。なんておぞましい世界だろうか。それはこれまでもそうだった、ハイクラスの人間にしか許されない領域というのはいつだってあった、というのも事実である。でもそれはこれまで、我々の世界とは地続きじゃなかった。だから関係がなかった。でもSNSの評価での選別は、もうこちらの世界の話だ。我々は、友達を増やさなければならないし、そしてその友達は犯罪など起さない健全な人間でなければならない。そうしないと自分自身の評価が落ちる。これをディストピアと呼ばずしてなんだろうか。これまでも十分にきな臭かった「友達作り」「人間関係作り」「人脈作り」というジャンルは、ここへ来ていよいよ猛烈な悪臭を放ちはじめた。純粋な友情などというものは、もうそろそろ地球上からなくなってしまうのかもしれない。就職のときにもさんざん求められた「コミュニケーション能力」というものが、無事にそのコミュニケーション能力の充足によって社会を組成する側になった人間たちによって、癒着と融合を重ね、とうとう社会に巨大な怪物を作り出したのだと思う。もう人類はコミュニケーション能力充足型の人間しか、まっとうに生きられなくなる。コミュニケーション能力不足型の人間は、このあたりで淘汰され、次の時代に連れていってもらえない。