2018年8月1日水曜日

友達についての思索・17

 この記事が友達についての思索のターニングポイントになると思う。
 喝破したのである。
 僕は友達が欲しいんじゃない。
 だって具体的にどんな友達が欲しいのかと言えば、明確に浮かばないのだ。キムチ鍋を一緒に食べて、くだらない猥談を延々とできるような、そんな友達がいたらいいなあ、などとぼんやり思ったりもするけど、キムチ鍋が執り行われるその部屋は分厚い霞の向こう側にあり、とてもぼんやりとしている。どういう契機でそんな交遊が生まれるのか想像もつかないし、そもそも友達とは、こちらの「こういう友達」という注文にピタリと嵌まるものがどこかから届けられるような、そういうものでもないだろう。キムチ鍋猥談が途轍もなく愉しかった夜もあれば、知らないジャンルの音楽のライブに誘ってきて、僕が断ったら別の方面の友達と行くことにして、ああこいつは、僕よりもその別の方面の友達とのほうが気が合うと感じたんだろうな、こうして今後、また僕と遊ぶことがあったとしても、いつだってこいつの頭の中には、向こうの友達のことがあるようになるのだろうなと思う夜もあるだろう。そういうことを考え出すと友達って煩わしく、本当には欲しくない、などと思う。
 でも、それじゃあ友達が欲しいのでなければ、僕のこの、定期的に去来する友達という存在に対する激しい感情の正体はいったいなんなのか。それをこのたびついに突き止めた。
 それは、友達が多い人間が嫌い、という思いだった。
 結局のところ、僕がこれまで「友達が欲しい……」と地団駄を踏む精神状態に陥っていた場面というのは、僕以外の人間たちの和気藹々を目の当たりにしたときであり、それによって込み上がる気持ちを、彼らのようになりたい、彼らのように友達が多い人間になりたい、という欲求だと勘違いしていたのだけど、実はそうではなかったのだ。僕はただ単に、彼らのことをムカついていただけだったのだ。別に僕自身が友達を欲しいわけではないが、友達が多い人間というのがとにかく嫌いなので、その様に対して激情を沸き上がらせていたのである。
 そのことに、昨日ようやく気付いた。長い旅だった。迷走ばかりの旅だった。この旅の大部分において、僕は自分が友達を欲しがっていると勘違いし続けていたのだ! なんという錯誤だろうか。そんなわけあるか。友達なんていらない。僕はただ、友達が多い人が嫌いなだけだ。世の中のありとあらゆる友情関係が消滅してほしいだけだ。自分に友達がいないことにはなんの変化もなくていい。ただ友達の多い人の周りから友達が消え去ってほしいだけなんだ。そうすれば僕は満足なんだ。友達たちが愉しそうだから、僕はいつまでも気持ちが休まらない。