2018年8月2日木曜日

友達についての思索・18

 思えば僕は無意識のうちに、そのことを分かっていた。


 というロゴがある。「友達は友達に向かって友達のことを話す」である。これがTシャツの前面にプリントされた場合、背面の首元のあたりに、「ALTHOUGH I DON'T KNOW THAT FRIENDS」というフレーズを置きたい。とは言え俺はその友達のことを知らない、である。知らないのである。興味がないのである。なのにこいつはこいつの友達の話をするのである。友達が多い人の、そういうところが嫌い。嫌いで、思わずロゴにしていた。実はそれくらい、嫌悪の所在地は把握できていたのだ。それがいつからか、俺も友達が欲しい、にすり替わっていた。おそろしい。友達ドラッグのおそろしさを目の当たりにした気がする。友達って、いるとそれだけで、存在感や多数決など、集団の中で強者になれるので、そうじゃない側からすると、友達がいる状態にある人々のことが無性に眩しく見えたりするのだけど、実際はそんなことないと思う。単細胞生物が、一個の細胞だけで生きて、それそのものが命であるのに対し、多細胞生物は、細胞という個の集合でありながらひとつの存在となり、その巨大なひとつの存在を保つために、末端の一細胞なんかは簡単に捨てられる感じがある。それが友達になるということだと思う。そしてある瞬間に粗末に排斥されるかもしれない恐怖が、彼らには常に付き纏うので、彼らはいつだって無理に華やごうとする。華やぐことで、自分が排斥される側から排斥する側になろうとするのだ。それならそれでいい。見苦しいがそれが彼らの生き方だ。しかしその情動の発露として、知らない友達の話をこちらにしてきたりするから、そういうところで彼らは僕の嫌悪の対象となる。
 いよいよ突き止めた、僕が一生かけて闘うべき天敵、友達が多い人。これに名前をつけたい。「友達が多い人」だとしまりがなくて、闘う相手として対象を捉えづらいのだ。とことん争うために名前をつける。そんな命名もある。
 友達人、というのが最初に浮かんだ。ともだちじん。そのまんまだ。そのまんますぎてなんにもおもしろくない。次に、友達のことを「ダチ」と呼ぶところから、ダチジンというのはどうかと思った。文字で表すと達人。闘う相手が達人というのは、ちょっと気持ちが盛り上がる。保留。もう何日か考えようと思う。生涯の敵の名前なので、そう簡単に決めるわけにはいかない。