2018年8月10日金曜日

友達についての思索・20

 夏のひとり暮しがぼちぼち終わる。淡々と過ぎた。
 家族を見送ってすぐに書いた「おこめとおふろ」で、この心の間隙は友達に埋めてもらおうかな、ということを書いた。友達というのはこんなガバガバな感情を受け止めてくれる便利な存在だから、と。もっとも特定の友達が、友達というのは往々にして同世代であるものだから、友達にも友達の家庭があり、たまたま自分がこうしてひとりぽっちになったとしても、友達の家庭はそうではなく、家族がいるのでそんな自由には誘いに乗れない、ということは十分にあると思う。しかし友達というのはひとりではない。LINEに登録してある友達に片っ端から声を掛けたら、200人のうちの5人くらいは、大抵いつだって誘いに応じてくれる。だからこんなときはその5人と会えばいい。こういうのは持ちつ持たれつで、立場が逆だったとき、もちろん自分も誘いに乗れない場合のほうが多いけれど、たまたま応じることのできた5人の側になることがある。そのようにして、友達が多い人々(友人)というのは、心の間隙を埋め合っている。互助組織なのである。その互助感が嫌。田舎っぽい。昔っぽい。ここは飢饉で生活が立ち行かなくなる寒村ではない。間隙ができたのなら間隙ができたで、それを埋めるために必死になるのではなく、そういうものと受け入れればいいではないか。ぽっかりと空いた間隙を損失だと思う心が、僕は前からこれを言っているのだけれど、損をするのを厭う精神、つまり不損の精神、すなわち不遜へと繋がっていくのだと思う。なるほど友達が多くて強気になっている、社会を支配した気になっている奴らの、傲岸不遜さというのは、こういう部分から来ているのだな、と納得する。だからやっぱり僕は友人と闘わなければならない。
 ところで妻子だけの帰省でも、あるいは妻だけ里帰り出産でも、夫をひとりにすると浮気をする、というイメージがある。それはひとりぽっちの寂しさをまぎらわすため、という理由からのイメージであるわけだが、そこで異性と浮気をしない代わりに友達と遊ぶのだとしたら、友達と遊ぶこともまた浮気の一種だと言えるのではないか。「恋人ができると友達づきあいが悪くなる」という通説があり、それはどうしたって事実なのだけど、それこそが友達づきあいは恋愛の代替であることの証左だ。そうなのだ。友達と遊ぶことは浮気なのだ。異性間の友情って成立するかどうかではない。浮気じゃない友情なんて存在しないのだ。だってそうだろう。じゃあ逆に、なにが友情でなにが浮気なのか。夫が男友達とペニスフェンシングをしていたら、それは友情か浮気か。夫が女友達とふたりきりで映画を観に行ったら、それは友情か浮気か。その区別はつけようがないだろう。だから、家族以外の人との交遊は、すべて浮気なんだと思う。阿呆め! 淫売め! だから友人は嫌い。