2018年9月10日月曜日

友達がいない風景・2

 前に職場で同僚と、僕の出張の話をしていて、出張はどうなの、と訊かれたので、「最初のうちは人見知りだから緊張したけどだんだん慣れてきた」と答えたら、「パピロウが? 人見知り?」と、きょとんとした反応をされ、こっちのほうがきょとんとした。
 それで今回の出張の際、出張先の人とお酒を飲んでいて、「人見知りだから友達ができない」という話をしたら、その人からも、「パピロウが人見知り? 最初から気さくに話してたじゃん」ときょとんとされて、やはりきょとんとしたのだった。
 どうやら自分が思う自分と、他人が見ている自分は、だいぶ違うようだ。
 ──という話を夕食のとき、ファルマンに向かって話した。そうしたらファルマンは、無言で立ち上がり、台所のシンクの所へ行って、おもむろに手を洗って帰ってきた。それで「どうしていま手を洗ったの?」と訊ねたら、「……あれ? 私、どうして手を洗ったんだろう」と自分で不思議がっていた。そして「たぶんいまのあなたの話のせいだと思う」、と妻は言った。心の中にぞわりと、静かで激しい感情が湧き上がったらしかった。
 「君はこういう風に、自分の思う自分と他人の思う自分が違うってことないんだ?」と訊ねたら、「ない」と即答された。僕の話も別にぜんぜん華やかな話ではないはずだが、本当の人見知り、本当のコミュニケーション能力欠損者は、このレベルの話に対して、食事中に思わず手を洗いたくなってしまうものらしい。手を洗うというのがリアルで気色悪い。さすが本物はすごいな、と思った。
 しかしどっちが正しいんだろう、という気もする。ファルマンに言わせれば僕は似非コミュニケーション能力不足者ということになるが、対話者にとって気さくな人柄でありながら友達ができないのだと考えると、そこには殊のほか根深い問題があるような気がする。僕にはもう、友達作りに関して、伸び代がないということにはなるまいか。それに対してファルマンのような人間には、「まだ一歩目を踏み出していない」という希望が残されている。踏み出したところで友達ができる可能性は極めて低いが、それでもゼロじゃない。ゼロじゃない妻が羨ましい。憎い。手を洗いたくなってきた。