2018年7月2日月曜日

友達についての思索・14

 今日はやけに友達がいないことが骨身に沁みる日だった。いつもの「ファッション友達が欲しい」とは違って、今日は切実なやつ。人生全体を考えて、暗澹たる気持ちになって、孤独に打ちひしがれてしまうやつ。たまにそういうときがある。ファルマンにそれを話したら、ファルマンでさえ「ああ、たまにあるよね、そういうとき」と言っていた。あのファルマンでもあるのだから、すべての人類にあるということだ。こういう気分のとき、人はぬくもりを求めて自棄な行動を起したりするのだろう。ならば僕は、そういう状況に在る人々の、宿り木になりたい。あなたが自分はひとりぼっちだと哀しみに浸っているとき、実は心に寄り添っている存在がある。それが僕だよ。僕か、あるいは親鸞だよ。
 そんな今日の夕飯のあと、ポルガがなぞなぞの本から問題を出してきて、その1問目が「殻に閉じこもってばかりで外に出てこないという暗い生き物は?」というものだった。「それは……俺のことだ」と僕は答えたのだけど、7歳の娘は僕の心情なんかまるで慮ってくれずに、「ブー! 正解はでんでん(出ん出ん)虫でした!」と明るく言ってきた。子どものこの残酷さ。さらに2問目が、「道具を使わずに、どんなに嫌なものでも一瞬で消してしまう方法は?」というもので、そ、そんないい方法がなにか存在するのか!? と色めき立ち、本気で考えた結果、「わかった! 目をつむればいいんだ!」と正解にたどり着き、それはたしかに正解だったのだけど、正解した嬉しさよりも、問題とその答えの内容の切なさのほうが心に迫ってきて、思わず目をつむって耳を塞ぎたくなった。
 そうしてしばらくそのままでいて、気が済んで目を開けたら、僕の周りを幾重にも友達が囲んで、みんな笑っていればいいと思った。友達がいてくれたらいいと願うのではなく、その友達たちが笑っていてくれればいいと望むところに、僕の美徳がある。しかし美徳のある人間に、現世は友達をもたらさない。なぜなら友は類によって呼応するものだからである。現世に美徳のある人間など、もう僕しか残っていない。だから僕には友達ができないのだと思う。僕もあなた方のように穢れていれば、あなた方と仲良くできたことだろうに。残念です。

2018年6月23日土曜日

友達についての思索・13

 中国ではスマホひとつでありとあらゆることができるようになっているという話が、最近よく耳に入ってくる。もはやスマホがIDそのものであり、お金のこととか、各種の申し込みとか、全部スマホでするらしい。曰く、中国は国家の成り立ち上、お上に支配されることに対しての人民の抵抗感が低いために、こうまで個人情報をネットワークに直結させることができたのだ、などと言う。たしかに中国人ではない僕の感覚としては、なんとなくその状況に対して抵抗感はある。人生上のありとあらゆることがスマホでできるということは、人生上のありとあらゆることが、政治なり経済なり(そしてこの二者は往々にして結託する)の支配者にさらけ出されるということだ。それは管理じゃないか。そうなるともう人民は、「不穏な動き」ができない。「不穏な動き」とは即ち革命というわけではない。反体制的な発想が、イコール革命へと繋がるわけではない。そんな滾る熱い想いなどないが、国家の管理下からはなるべく逃れて生きていきたいというスタンスが、そういう環境では許されないということになる。そこに強い抵抗感が湧く。スマホを管理されるということは、SNSなどでの人間関係も知られるということであり、実際にもう中国では、SNS上での人脈の広さ、およびその人脈の質(年収とか犯罪歴とか)によって、コミュニティにおけるその人物の相対的な価値が算出され、その価値によって入場が許されるエリアであるとか、受けられる特典とか、そういう差別がなされているらしい。なんておぞましい世界だろうか。それはこれまでもそうだった、ハイクラスの人間にしか許されない領域というのはいつだってあった、というのも事実である。でもそれはこれまで、我々の世界とは地続きじゃなかった。だから関係がなかった。でもSNSの評価での選別は、もうこちらの世界の話だ。我々は、友達を増やさなければならないし、そしてその友達は犯罪など起さない健全な人間でなければならない。そうしないと自分自身の評価が落ちる。これをディストピアと呼ばずしてなんだろうか。これまでも十分にきな臭かった「友達作り」「人間関係作り」「人脈作り」というジャンルは、ここへ来ていよいよ猛烈な悪臭を放ちはじめた。純粋な友情などというものは、もうそろそろ地球上からなくなってしまうのかもしれない。就職のときにもさんざん求められた「コミュニケーション能力」というものが、無事にそのコミュニケーション能力の充足によって社会を組成する側になった人間たちによって、癒着と融合を重ね、とうとう社会に巨大な怪物を作り出したのだと思う。もう人類はコミュニケーション能力充足型の人間しか、まっとうに生きられなくなる。コミュニケーション能力不足型の人間は、このあたりで淘汰され、次の時代に連れていってもらえない。

2018年6月15日金曜日

友達についての思索・12

 友達の欲しさこそが僕の生きる原動力なのではないだろうか。その情熱が屋台骨となって僕という人間の形状を支えていると言っても過言ではない。言われてみれば、バトンも、ピンクのネクタイも、フォークダンスも、トランプのサインも、すべて友達から絶賛されるために、そして「FRIENDS TALK TO FRIENDS ABOUT ON FRIENDS.」という僕のオリジナルロゴが示すように、僕のことを絶賛する友達が、僕のことなんて知らないその友達の友達に向かって、「俺の友達にパピロウっていうおもしろい奴がいてさ……」と語ってくれ、そしてその語られた側の人が、「ALTHOUGH  I DON'T KNOW THAT FRIEND!」と心の中で憤るという、その瞬間のためにやっているのかもしれない。本当にそうだとしたら、なんとつまらない人間だろうか、僕は。いや、物事の動機のすべてが友達からの称賛のためではもちろんない。でも大体において3割5分くらいはその期待が入っている。でもそれは仕方ないじゃないか。そんなこと言ったってしょうがないじゃないか(えなり)。美味しくて量が多くて安い定食屋が、「お客さんの喜ぶ顔が見たくて……」と言うのと一緒だろう。だとしたら別にいいことだろう。企業努力じゃないか。企業努力で、僕はバトントワリングをするし、フォークダンスの音楽を聴き続けるし、トランプのサインも練習し続けるのだ。
「でもね、パピロウ」
「だ、誰だっ!」
「それじゃあ友達はできないわ」
「な、なんだと?」
「むしろ逆効果よ。奇行を遠まきに見る感じになるわ」
「そ、そんな、そんなわけねえよ!」
「いいえ。そうよ。この意味わかるでしょ」
「わっかんねえよ!」
 ぜんぜん解らない。バトンとか、悪質なタックルコントとか、フォークダンスとか、トランプのサインとか、おもしろそうな要素ばかりで、僕だったらすぐにこの人と友達になりたくてしょうがないだろうと思うのに、僕の中の雫は逆効果だと言う。意味が解らない。僕の中の杉村が混乱している。夕子は俺のことが好きなのか。そんなの困る。だって俺……、俺、俺のことが好きなんだ!
 僕の中の雫が「ひっ!」と小さな叫び声をあげた。

2018年6月9日土曜日

友達についての思索・11

 ROUND1へ、自分から誘うわけではないが、誰かが行くことになったときに便乗したり、なんとなく全体の流れでROUND1の機運が高まったときに、「そう言えばプロペも行きたいって言ってたしな」みたいな感じで想起され、決定の後押しになったりすればいいという、いまそんなスタンスでいるのだ、ということを、職場でごく一部の人に対して標榜していたのだけど、そうしたらその中のひとりが、あろうことか人が何人かいるときに(その人は僕と違って他の人と和気藹藹とするのである)、「プロペがROUND1にすごく行きたいらしいよ」という情報を開陳して、その結果どういうことになったかと言えば、「みんな苦笑いで微妙な空気になった」そうで、その報告を聞いて僕は、「う、うん……」となった。分かってはいたけど、こうして人づてながら、正式に僕の名前による呼びかけで、ROUND1への誘いが断られると、やっぱりダメージがあった。
 でも冷静に考えてみたら、やっぱりROUND1に行くとなると、貴重な休日に、数千円かけて、さらに体力と時間を費やすわけで、それはたしかによほど仲のいい、一緒に行ったら愉しいことが保証されている相手とでなければ行きたくないよな、と思った。そしてそれは僕だってそうなのだ。でも僕はその対象として、職場の人々を想定しているわけである。なぜか。それは、職場以外にも地元の学生時代からの友達がいくらでもいる職場の人々に対して、僕には職場の人々以外に、友達どころか知人さえもいないからである。
 そんなことを考える中で、「友達偏差値」という言葉が頭に浮かんだ。各学校が、学校の代表をひとり選出しなければならないとなったとき、それは学内での偏差値が高い者を選ぶほかないわけで、だからそれが僕にとっては、よほど用件があるときはちょっと話をする程度の職場の人々ということになるわけだけど、破皮狼学園ではよく目立ち、生徒会執行部にも属する彼らが、いざ代表として他の学園の生徒と触れ合えば、そのレベルの違いにおののくに違いないのである。破皮狼学園内では敵なしの彼らがもしも他の学園に転入したらば、これまで彼らが誇りとしていたその偏差値は一気にガタガタと下落する。「聖・地元の友達多い人学園」において、よほど用件があるときはちょっと話をする程度の職場の人々は、もはや友達偏差値という尺度において、ともすれば数字をつけることができないほどの落ちこぼれとなる。だからもちろん、「聖・地元の友達多い人学園」の運営者は、「破皮狼学園」の運営者とROUND1に行かない。行くわけがない。「聖・地元の友達多い人学園」の運営者は、本当に友達偏差値の高い、地元の友達とROUND1に行くのである。
 なにが哀しいって、学園全体の偏差値が低すぎて、学内考査で偏差値が高い数値となる生徒が、一歩よその学園に行けば落ちこぼれになるという、その絶対的な力量の差と言うか、救いようのないショボさが哀しい。破皮狼学園でどれだけ内申点とか取っても、推薦をくれる高校はこの世にひとつもない。なぜなら学園全体のレベルがあまりにも低いからだ。つらい。

2018年5月25日金曜日

友達についての思索・10

 ROUND1に行ってバブルサッカーをしたい、ということを前々から言っていて、その思いは鎮火するどころかまだまだ燃え盛っているのだけど、そこへ来て日大アメフト部の悪質なタックル事件が起って、なんかもう高まりが高まりすぎてどうにかなってしまいそうになっている。俺はこんなことしてる場合じゃないんじゃないか。今すぐにでも、とりあえずピンク色のネクタイを買いに行かなければならないのではないか。昨日なんか実際に、ファルマンに仕事終わりの電話を入れた際、「ちょっと買い物して帰るから遅くなるかもしれん」「なに買うの?」「ピンク色のネクタイ」「……まっすぐ帰っておいでよ」という会話を繰り広げた。妻が止めなければ本当に買いに行っていた。買って、ROUND1でバブルサッカーをして、そのとき悪質なタックルをしてみせて、みんなから怒られて、ピンク色のネクタイを着けて(Tシャツの上にね)謝罪して、そして被害者の名前を読み間違えるという、一連のコントをするつもりだったんだ。誰と? もちろん友達とに決まってるじゃないか。友達なんてひとりもいないくせにさ!
 本当に、あまりにもバブルサッカーがしたくて、あまりにも悪質なタックルのコントがしたいのに、あまりにも友達がいない。友達がいないという事実は、普段からうっすらと寂しい気持ちを僕に味わわせ続けるけれど、こんなときは余計にそれが掻き立てられる。友達のいなさが骨身に沁みる。僕と友達の間には、圧倒的な大きさの「友達いなさ」が立ちはだかっていて、僕を体ごと包み込み、五感を奪う。だからそいつ越しに友達の存在を探ろうとしたって、もちろん見えないし、気配さえ感じることができない。だから僕は想像するしかない。「友達いなさ」の向こう側にいる、いつか出会って手を取り合って喜び合える友達を、どんな奴だろう、こんな奴だったらいいなと、思い浮かべることしかできない。ああ、早くいなくなってくれないかなあ、「友達いなさ」のくそったれと来たら! (なんとなく「ライ麦畑でつかまえて」風の語り口になったが、特に深い意味はない)
 職場で、ROUND1に行きそうな若い女の子たちに向かって、直接に誘うわけでは決してなく、直接に誘ってもしも実現しようものなら、言い出しっぺとして参加者を愉しませなければならないというプレッシャーに勝てる自信はないのでそんなことはず、こう頼んでいる。「いつか君が君の友達とROUND1に行く予定が立ったら、俺に声を掛けてくれ」。そうしたら僕は当日しれっとROUND1の入口の所に通りすがり、「えっ奇遇じゃん。俺もちょうどROUND1に行こうと思ってたんだよね」と、ひとりなのに堂々とのたまってみせて、そしてその子の友達にタダ乗りし、一緒にバブルサッカーをやって、悪質なタックルをして、ピンク色のネクタイで謝罪して、名前を間違えるのだ。というそこまでの思惑を伝えたわけではないけれど、「バブルサッカーをしたいから声を掛けてくれ」と頼んだところまでは実際にあった怖い話で、女の子たちはこれを冗談と受け取ったのか、なんか笑っていたのだけど、どっこい冗談でもなんでもないのだ。これはドキュメンタリーなのだ。
 ピンク色のネクタイを買わず、まっすぐ帰った自宅では、ポルガが「原始生活ごっこ」なる、くせの強い遊びをしていた。たぶんこいつも将来ぜんぜん友達がいないタイプの人間になるんだろうな、と常々思っていることを改めて思った。獲得形質は遺伝しないので、もちろん僕にこの責はない。言うなればふたりとも遺伝子の被害者だ。遺伝子組み換えでない! 遺伝子組み換えでないから安心だなんて、どこ情報なんだろう。

2018年5月18日金曜日

友達についての思索・9

 LINEの友達が増えない。
 LINEの公式アカウントを入れて、登録者は7人しかない。だから人間は6人だということだ。なぜいちど公式アカウントを数に含めてみたのか。そのほうが多く思われるとでも思ったのか。7も6も、どちらにせよ農夫の戦闘能力くらいのものではないか。
 そしてその6人のうち3人は、妻と、母と、姉だ。実に全体の50%は身内の女である。すごい比率ではないか。もしも登録者が500人だとしたら、250人が身内の女だということになる。どれだけの大女系一族だというのか。彼はいったいどんな人生を送るというのか。
 そして残りの3人は、先般から行っている出張関連の人々であり、そもそもここらへんとの事務的な連絡をLINEでするために僕はタブレットを持つことになったのだという、そういう来歴がある。しかしいざ持ってみればほとんど連絡のやりとりはなく、まあ仕事関連の人とのやりとりなんてないに越したことはないわけだが、とにかく大事なのは、この3人もまた決して友達ではない、ということだ。
 つまり書き出しで「友達が増えない」と書いたが、これはちょっと雑な表現なのだ。増える、増えない、というのは、今回の僕のように、0からまるで変動がないパターンのときは、あまり使うべきではないと思う。1が2になるとか、2万が2万のままだとか、そういうのが「増える」とか「増えない」ということだ。じゃあ0が0のままなのはなんと言えばいいのか。
 答えは「生まれない」。
 だから書き出しを校正するとこうなる。
 LINEの友達が生まれない。
 なぜなのだ。なぜ爆誕しないのだ。ルギアだって爆誕したというのに、なぜ僕のLINEの友達は爆誕しないのか。爆誕という表現をポケモンの映画のそれで初めて知ったので、ルギアがどういうものかも知らずに、いつまでも爆誕という言い回しにはルギアがセットになってついてくる。
 僕はてっきり、LINEを始めたらもっとサクサク友達ができるものかと思っていた。サク友だと思っていた。ひっきりなしに「友達かも?」みたいな世話をLINEは焼いてくれるのかと思っていた。だって! だってスマホやタブレットの類というのは、ものすごく位置情報とか閲覧履歴とか探ってくるじゃないか! じゃあLINEは、けっこう近場にいて、僕と趣味や嗜好がわりと合う感じの人とか、知ってるってことじゃないか! 紹介しろよ! 「友達かも?」「いい友達になれるかもよ?」「生涯の友人となる人かもよ?」と世話を焼け! 焼けよ、焼いてくれよ……。

2018年4月27日金曜日

友達についての思索・8

 LINEを始めたことで、すごくドキドキしている。
 そもそも据え置き型として生み出されたロボットが、あるとき博士の気まぐれで足のパーツを取り付けられて自由に動けるようになって、「わあ、僕はどこへでも歩いていけるんだ!」と大喜びするような、そんな気持ち。世界は光輝いていて、その中へ飛び込んでいける幸福感に、全身が埋め尽くされている。
 これまでは手段がなかった。友達が欲しいと切望しても、手も足も出なかった。でもいま僕にはLINEがあるのだ。あの、友達のいる人たちが、友達と連絡を取り合うときに絶対に使うツール、LINEが。それじゃあ僕には、友達ができる、可能性がある。これまでなかった、可能性が生まれたのである。その可能性は爆発性を帯びていて、ある瞬間にドドドドド、と友達が増えるかもしれない。ちなみにファルマンはこのたび、ピイガの幼稚園のクラスの、お母さんたちで構成されるグループLINEに参加し、一挙に25人もの人間と関係を持つことになった。に、に、25人!
 だけどロボットはすぐに気がつくのだと思う。脚を動かすのはとても疲れるということに。これまでは小さなソーラー発電で何日間も賄えていたバッテリーが、頻繁に充電しなければならなくなってしまった。充電中は電源をオフにしなければならない仕様なので、そのせいでなんだか一日がとても短くなってしまった。しかも実際に出歩いてみれば、外の世界というものは思ったほどいいものじゃない。整然としていて美しかった博士の研究所に対して、外界はあまりにも混沌としているのだった。もちろん感動するほどきれいなものもあるけれど、それと同じくらい、いやそれ以上に、見たくないものもたくさんあった。知りたくないこともたくさんあった。レンズの瞳で夕焼けを眺めながら、ロボットは思う。あーあ、僕は脚がなかったときといまと、どっちがしあわせなのかなあ。
 25人のLINEグループでは、早くも中心人物的な人ができていて、しかし絶対にその雰囲気を快く思わない層というのも一定数いるはずで、その一定数が集って密かに集って新たなLINEグループを作る、なんてことは容易に起り得そうで、なんかそういうの、えげつないとも思うし、人類愛、人間讃歌を謳う人間としては、とても愛しくも思う。
 でもこれだけは心の底から思うこととして、僕は学生時代にLINEがなくてよかった。

2018年4月15日日曜日

友達についての思索・7

 タブレットを持つ。ガラパゴスケータイを保持したまま、ポータブルパソコンとしてタブレットを持つことにしたのだった。
 タブレットでLINEとかを始めることで、ガラケーのほうのメール機能はまったく必要なくなったので、月々300円ほど掛かっていたそちらの契約は解除した。だからガラケーは本当に電話番号で電話をするだけの、「距離の制限なく使える子機」みたいな感じになった。そもそもが骨と皮だけのような、月々1000円掛かるかどうかみたいな契約だったのが、これによって完全にミイラのごときレベルになった。たしかに生命であったという痕跡だけが残っているような状態。
 auの窓口で手続きを頼んだら、とても簡単に、「じゃあ今からメールはできなくなります」という感じで、機能をストップされた。それで問題はないのか、なにしろこれまでLINEをしていなかった人間であるわけだから、メールアドレスでしか繋がっていない関係性だってあるわけだろう、そういう人たちに対しての断りは必要ないのか、という話だが、どっこい問題はないのである。まず前提として友達の絶対数が少ないのに加え、この数年の世間のメール離れ、LINEガバガバな風潮によって、こんな僕とメールで繋がりを継続し続けてくれるような関係性の人は、母と姉を除けば(ファルマンとはショートメールを使っていた)、ただのひとりもいなかったのである。だからとても身軽に、auのメールアドレスを破棄することができた。この身軽さこそが、人間関係ミニマリストの身上だ。
 と言いつつタブレットでLINEを始めるのだから矛盾しているわけだが、これは世間の荒波と言うか、社会人としての事情なども関わってくるので、個人の信念とは関係のないどうしようもない部分なのである。ただしLINEは電話番号でするわけではないので、そうガバガバと人(特にこれまでの人間関係)と繋がるわけではなく、ある程度の選別ができるらしく、それも大事だと思ったため、こうしてスマホ1台ではなく、ガラケーとタブレットの2台持ちの状態を選択することにしたのだった。ちなみにふたつ合わせても格安スマホの契約より少し安いくらいである。
 もっとも徹頭徹尾、タブレットを持たざるを得なくなった今回の状況に対して忸怩たる思いかと言えば、もちろんそんなことはない。スマホというものにはどうにも魅力を感じることができないのだが、ファルマンが僕に先んじてこの2台持ちの状態となり、その様をすぐ傍で眺めてきた結果として、タブレットはあるとよさそう、タブレットを持つことを想像するとワクワクする、と感じていた。それはタブレットが、進化したケータイではなく、ノートパソコンの亜種だから(あくまで個人的な見解として)で、ノートパソコンの亜種が30000円あまりで買えるのだから、かつてノートパソコンしかなかった時代に較べ、現代はとても買い時なのではないかと思う。そしてノートパソコンの亜種として持つので、当然キーボードは必要になってくる。あんな画面上の平面のキーなんか打てない。あれはスマホ側の文化だから、唾棄すべきものだ。だからキーボードも買った。それも携帯用ではあまりない、折り畳みとかフニャフニャとかそういうんじゃない、けっこうちゃんとしたキーボード。それでキーボードを選んでいたとき、マウスとセットの商品なんかもあって、ファルマンに「マウスもいるかな?」と訊ねたら、それはさすがに呆れられた。しかしスタンド台は買った。ただ傾けるだけはなく、なるべく画面を目線の高さにしたくて、書見台のようなやつを注文した。書見台のようなやつにタブレットを置き、キーボードを接続して、そうして僕のタブレットスタイルは完結するのだと思う。我ながら旧時代感がとてつもないと自覚している。もうパソコンの所で止まってしまって、それ以上のテクノロジーは受け入れられないのだと思う。仕方がない。誰か友達になってください。LINEしようぜ!

2018年4月2日月曜日

友達についての思索・6

 どういう話の流れだったのか、その場にいなかったので判らないけれど、島根の実家において、「僕に友達がいない」という話題になったらしい(これはいじめではないのか)。そしてその際、あの典型的な友達が多い人種であるところの、僕の姉と同タイプの、あの三女が、不思議そうにこう言ったのだそうだ。
「なんでパピロウちゃん、友達できないのかな。おもしろいし、やさしいし、普通にできそうなのに」
 本当にそう、と思った。本当にそうだ。解る人には解るんだ。日々せっせと誠実に生きてきた努力が報われたような気がした。思えばこれまで僕は、切々と気持ちを訴えてもなんの反応もないブログや、僕よりも多少友達はいるけれど僕よりも人類愛が圧倒的に乏しい妻にしか、「友達がいない、友達が欲しい」ということを主張してこなかった。それが間違いだったのだと瞬間的に悟った。向こう側に誰もいないブログ画面や、人間的情緒の欠損した妻に、僕の気持ちも、魅力も、尊さも、受け止められるはずがなかったのだ。僕はこれまで、馬の耳に念仏を唱え続けていたのだ。それに較べて三女の友達の多さ加減と言ったら一遍上人レベルであり、それならば耳元に念仏を唱える意味も出てくる。そしてまっとうな反応が返ってくる。「どうしてかな、おもしろいし、やさしいのに」。この説得力。言われてみれば僕は本当におもしろいしやさしいのに、なんでこんなにも友達がいないのか。これってもしかして、僕が原因なのではなく、人間界だけに収まらない壮大な世界観による大スペクタクルな力によって、ここだけ作用と結果の関係性が捻じ曲げられているのではないか。僕に友達ができないのは、宇宙のバランスを保つための忖度が働いているのではないか。そう思った。思ったと言うか確信した。だってそうでなければどうしたっておかしいもの。だっておもしろいしやさしいのに!
 しかしそんな三女のつぶやきに対して、僕の長女、7歳、ポルガが、こう言ったという。
「だってパパ、プライド高いもん」
 マジかよ、と思った。本をたくさん読む小学生女子なので、普段からとても小生意気だと感じていたが、もう、7歳でもうそんなことを言うのか。そんな、そんなに本質を突くようなことを言うのか。言ってしまうのか。小生意気で、観察眼が鋭く、的確な言葉を知っているのに、思慮だけがまだ嘘みたいに欠如している、とてもおそろしい生きもの。早く、早く、教科になったという道徳の効果が現れてほしい。「事実だからって言っちゃいけないこともある」ということを学んでほしい。
 でもそんな娘の容赦ない言葉の平手打ちによって、目が覚めた。そうだ。友達が多い人種の、「なんで友達ができないのか不思議」発言って、それってよく考えたら別に喜ぶものじゃない。これって本質的には「パンがないならケーキを食べればいいのに」であり、お前に俺たちの苦悩が解るものか! と革命の原動力となる怒りをぶつけるべきだったのだ。満たされている者に、貧しい者の気持ちが解るものか! 危うく騙されるところだった! 武器を持て! 立ち上がれ! 列に入れよ、我らの味方に! 砦の向こうに世界がある! 戦えそれが自由への道!
 僕は誇り高き戦士。けれどいったいなにと戦っているのだろう。

2018年2月28日水曜日

友達についての思索・5

 友達を作るにはフットサルをすればいいらしいけどフットサルはまず友達が誘ってくれないと始められないとか、バブルサッカーをしたいけど一緒にROUND1に行く友達がいないとか、これまでFIFA的な方面でいろいろ思い悩んできたけれど、最近になってこう考えた。
 これから人に「趣味はなんですか?」と訊ねられたら、こう答えることにしよう。
「サッカー、ですかね。最近はフットサルも」
 もう実際にスポーツとしてのそれを行なった行なっていない、というのは大した問題ではない。もちろん細密に言うならいちども行なっていない。しかしもともと僕は、ブロガー・プロペ★パピロウとしての面しか知らない人からは意外に思われるかもしれないが、現実の対人での会話においては、とても言葉足らずな人間なのである。スタップではない本物の他人と相対すると、伏し目がちになり、なるべく早く会話を終わらせてその場を立ち去りたくなる性分なのだ(しらふの場合は)。
 だから言葉の本意としては、
「(バブル)サッカー(を友達とROUND1に行ってやるのを夢想すること)、ですかね。最近は(自分を)フットサル(をやるタイプの人間だと信じ込む遊び)も」
 なのだが、括弧内の文言は割愛して発するのである。割愛とは、なぜ「愛」なのか気になって辞書をあたったところ、「愛執を断ち切ること」だからだそうである。たしかに括弧内の文言は僕にとって愛執であり業の塊のような部分だ。でもそれを泣く泣く切り捨てる。その結果として、趣味を訊ねられた際、
「サッカー、ですかね。最近はフットサルも」
 と答える、NEWSの手越もかくやな快活な人間像ができあがる。そして何度もこう答えているうちに、相手だけでなく、自分自身にもこのレトリックのマジックは効果を発揮しはじめ、僕は僕が、大勢の友人たちとサッカーやフットサルを愉しむほうの人種であると、信じられるようになるのではないかと思う。
 ただしこの戦術に唯一の問題があるとすれば、これからの後半生において、僕に気さくに「趣味はなんですか?」と問いかけてくる人間は、ひとりも現れないかもしれない、という点だ。と言うよりも、「趣味はなんですか?」と伺いを立ててくる時点で、そいつはもう僕とお近付きになりたいと思っているのは間違いないのだ。ならもう答える必要なんて実はない。これだけ言えばいいんだ。「Of course! I know!」と。俺は世界の一部としての君が俺のことを好もしく思っていることくらい、当然お見通しなんだよ、と。そして君という存在を受け入れるかどうかは僕の胸三寸によるんだからね、と。

2018年2月19日月曜日

友達についての思索・4

 夜にひとりお酒を飲んで、とてもいい気分になり、少し身体が浮き上がると言うか、リズムを取るようなフザけた動きをしながら、友達と笑い合いたい気持ちに駆られるときというのがあって、こんなのってもうクラブじゃん、と思った。クラブってこういう気持ちを充足させる施設なわけじゃん。お酒を飲んで軽く酩酊しながら、流される音楽に乗って適当に身体を揺するんだろう、友達と。あのクラブという場所は。なんだそれは。桃源郷か。全知全能か。
 もう34歳だし、岡山県在住だし、友達いないしで、僕はどうやらクラブとは縁を持たないまま人生を終えるのだろうと思う。そういう風に言うと少しだけ哀しい。でも行ったら行ったで、そういう場所にいる人々のことを僕は好きではないだろうから、愉しめないに違いないという確信も一方である。そもそもゲームセンターでさえ、柄の悪さと音の多さで苦手としているのだから、そんな僕がクラブの猥雑さに耐えられようはずもない。でもパピロウ、うちのクラブはそういうのとは違って、音楽を純粋に愉しむところだよ、怖い人とかいないよ(笑)、ともしも説得を試みる人があれば(ないが)、僕は音楽および、映画や小説やファッションや、そういうサブカルチャー的なものの愛好を、他人と共有しようとする人々のことがとても嫌いなので、それもまた嫌だよ、となる。じゃあパピロウ、いったいどんな雰囲気を作れば君は気に入ってくれるんだい、とそれでもまだ縋ってくる人があれば(あるわけないが)、僕は少し考えたあと、やっぱりこう言うしかないんだと思う。
 僕は、僕しかいないクラブにしか行きたくないんだ。
 その瞬間、僕の周りに群がり、なんとか僕をクラブに連れ出そうとしてくれていた彼らは、シャットダウンしたかのようにプツリと姿を消すのだと思う。
 ピイガの入園グッズ購入をきっかけに、父親である僕のもとにマイメロディブームが到来し、携帯電話にシールを貼ったり、メモ帳を鞄に忍ばせたり、ひそかに暮しの中にマイメロディを取り込みはじめている。いまはさすがにまだ自制心があるが、このままだと夏には堂々とTシャツなんか着てしまいそうな気配があり、気をしっかり持とうと思っている。
 そのマイメロディの、キャッチフレーズなのかなんなのか、グッズのデザイン内にたまに見られる共通の英文というのがあって、それが「Hi Melody! Don't you know everyone loves you?」というものなのである。これを見たとき、とてもハッとした。だって「ねえメロディ、みんながあなたのことを好きだって知らないの?」である。なんたる言い回しだろうか。「Everyone loves you!」ではないのである。みんながメロディのことを好きなんだよ、ではなく、メロディはそれを知ってるの? と訊ねるのである。なんだよそのやさしさは。「Everyone loves you!」だって十分に優しいのに、「Don't you know everyone loves you?」を知ったあとでは、少々角ばっているように思えてくる。それくらい「Don't you know everyone loves you?」には、丸いやさしさしかない。どんだけふわふわのもので包むのか、というくらいにやさしい。そもそも「Everyone loves you!」なんてことは、当然なのだ。世界があって、生命たるマイメロディがそれを知覚している、その時点で「Everyone loves you!」は前提としてある。わざわざ言うまでもないのである。この世界で、話の議題に上るとすれば、マイメロディはそのことを知っているのかどうか、ということなのだ。そしてそれを本人が知っていても、知らなくても、やっぱりエブリワンはマイメロディをラブなのだ。絶対的永久肯定。なんたる心地よさか。
 というわけで2018年のパピロウのスローガンは、「「Hi Papiro! Don't you know everyone loves you?」にしようと思ったのだった。僕はクラブには行かないけれど、僕が苦手とする、クラブにいるような人種もまた、僕の世界では、僕のことを愛しているのだ。そして僕はそれを知っている。知っているんだ。「Of course! I know!」と、僕は瞳を輝かせ、言う。何度も何度も、沢山言う。

2018年2月12日月曜日

林田と大津と北橋と滝口と鈴本

 繁華街に出て歩いていたら、道端に、項垂れて座り込むひとりの浮浪者がいて、こんな地方都市に珍しいと思った。本来なら足早に通り過ぎるべきなのだろうが、立ち止まって、ぶしつけと言ってもいい視線を送ってしまったのは、無意識になにか感じるものがあったからかもしれない。俯いているので顔が見えず、そのため年の頃はまるで窺えない。さらにはこの季節のこと、寒さに耐えるためだろう、ありったけの布きれを全身に纏わせていて、素肌という素肌が一切出ていないのだった。男の尻の下には段ボールが敷かれていたが、その程度で寒い今年の冬のアスファルトから伝わる冷気が防げるとは到底思えなかった。やがて男は、目の前で立ち止まった人間の存在に気づいたようで、ゆっくりと顔を上げた。ぼさぼさの髪、伸びっ放しの髭の向こうに現れたその相貌を目にして、僕の口から小さな叫び声が漏れ出た。
「は、林田……っ!」
 ――そう、それは17年前のあの夏、高校2年生だった我々が、いつものメンバーで集い、大津の持ってきた花火をした夜のことだ。大津は少し頭の足りない奴で、花火を持ってきたのはいいが、火もバケツも用意していなかった。バケツはまだしも、火がなければ花火は始まらない。我々の集う雑木林の前の空き地から近くのコンビニまでは、自転車で10分以上もかかった。面倒だが誰かが買いにいかなければならない、とうんざりしたところへ、「火ならあるぜ」と、北橋がライターを取り出してみせた。その夜、我々は初めて北橋がたばこを吸っていることを知ったのだった。かくして北橋のライターで花火に火を点けて、その花火から別の花火へと、火を繋げるようにして我々は花火を次々に灰にしていった。色とりどりの華やかな光を愉しむ余裕などなく、作業のようにせわしなく、ひたすら火が途切れないように努めた。こんな仕事みたいな花火ぜんぜんおもしろくねえよ、と言ったのは滝口だった。でも不思議なもので、それから倍の長さを生きた今でも、花火の思い出と言えばあの夜のことをいちばんに思い浮かべるし、そのときの滝口の口調に珍しく笑いが含まれていたのもしっかりと覚えている。いまの僕がタイムスリップして、当時の我々の姿を見たら、たぶんきらきらと発光していて、まともに見られないのではないかと思う。振り返ることでようやく分かる。人生にはそういう瞬間というのがあるのだ。花火の最後は定番の線香花火。はじめ細く頼りなかった光の尖端が丸まっていき、火球のようになる。それは小さいが、いかんせん軸のない紙の縒りでしかないもので持ち上げるには荷が重い。そのため持っている人間は繊細な動きを強いられて、それまで激しい火花を散らして盛り上がっていた心が、みるみる落ち着いてくる。そしてその落差はどうしたって人の心を無防備にするのだ。だから鈴本はこのタイミングで、両親の離婚により母方の田舎に引っ越すことを我々に告げたのだと思う。高校2年生はあまりにも中途半端な年齢で、選択肢が与えられているようで、実はちっとも与えられていない。なにより家族思いの鈴本が、母親と、小学校5年生になる双子の妹たちの新生活を、すぐそばで支えないという選択をするはずがなかった。我々はみんなショックを受けて、線香花火のかよわい火花が散る、とても小さな音が空き地に響いた。火球の行方を眺めて下を向いていたから、互いの瞳を覗かずに済んで助かったと思った。
 考えてみたらこの話に林田は登場しなかった。林田と滝口はかつて同じそろばん教室に通っていたらしいので、それでちょっと混乱した。

2018年2月3日土曜日

友達についての思索・3

 2次元ドリーム文庫や美少女文庫といった、あの類いの小説のことを、僕は官能小説ならぬ願望小説と呼んでいるのだけど、その願望というのは言うまでもなく性欲のことなのである。そこでは性欲方面の願望を、倫理とか体面とか気にせず、いくらでも充足させていい。そのため主人公は往々にして優柔不断な性格となり、「ひとりなんて選べないよ!」となる。だって幼なじみはもちろん好きだし、クラス委員のお嬢様も魅力的だし、水泳部員の健康的な肢体にも目を奪われるし、後輩のドジっ子もかわいがりたい。その結果、女の子たちは紆余曲折があったりなかったりして、「ほんとにしょうがないなあ、でもそういう優しいところがよくって、私たちみんな好きになっちゃったんだもんね」などと言って、全員で相手をしてくれることになる。ハーレムという願望が叶う。いいな、と思った女の子が、みんな俺にぞっこんで、ぞっこんらが存分にぞっこんぞっこんしてくれる。とても平和な世界である。嫌な人なんてひとりも出てこない。
 そんな願望小説の方法論は、性欲以外にも応用できるのではないか。たとえば僕は常々言っているように、友達が欲しいのである。それはもう、中学生の男子が、「家に帰ったら間違えて未来の配送センターからセクサロイドが配達されてねえかな……」と乞い願うほどに、友達が欲しいのだ。職場であれから5人以上の人に「ROUND1に行ったことはあるか」「バブルサッカーしたくないか」という話を振ったが、ひとりの口からも「それじゃあパピロウさん一緒に行きましょうよ」という応答はなかった。現実はかくもつらい。中高の6年間で、結局いちども僕の部屋にセクサロイドは誤配送されなかったように、友達はいつまでもできない。
 それならもう、そんなに熱情があって、そんなに実現しないんなら、もうそれは願望小説の題材だよ、という話だ。いろいろな女の子と、めくるめくおセッセをするエロ願望小説に対して、こちらはいろいろな種類の友達と、めくるめく交遊をする友達願望小説である。
 まず、やっぱり幼なじみがいるだろう。そいつとまず遊ぶ。そこへ、クラス一の人気者が、急に僕と仲良くなりたがる。そいつとも一緒に遊ぶ。続けて、部活でライバル関係にあった奴とも、なんだかんだで打ち解け、一緒に遊ぶ。さらに、委員会に入ってきた後輩もやけに僕のことを慕い、そいつとも一緒に遊ぶ。そうして暮す中、それぞれの予定がかち合ってしまい、「ひとりなんて選べないよ!」ということで、じゃあグループが違うけどみんなで一緒に遊べばいいじゃん、となって、全員でROUND1に行って、ものすごく愉しく遊ぶ。そういう小説。
 勘違いしそうになるが、あくまでBLじゃない。あえて言うならFRIENDS LOVE。FL。友達と遊ぶことなんてカタルシスにならないから物語として成立しない、と思う人は、現実に友達がいる人だろう。いない人なら解るはずだ。みんなで5Pするのと、5人でROUND1に行くのは、まったく同じだと思う。話の最後、大抵ROUND1にみんなで行って遊ぶエンドのレーベル。友達文庫。