2018年12月8日土曜日

友達のいない風景・5

 11月はこのブログにいちども記事を投稿しなかった。まあこのブログに限らず、全体的に投稿数は減ったのだが、その原因はと言えば、「cozy ripple流行語大賞」の銓衡のために、1年間の記事を読み返していたからだった。それに単純に時間が取られてしまったというのもあるが、しかしその作業中は、「友達について、そのいなさについて」がテーマのこのブログに、心の叫びを綴らねばならないという衝動に駆られなかった、というモチベーションの要因も大きいと思う。
 僕は、僕の書いた日記をがんばって読んでいた11月の上旬から中旬にかけて、自分に友達がいないつらさを、忘れることができていたのだ。
 つまりそういうことなんだな、と思った。結局のところ友達というのは、熱中できることのない、茫洋とした精神のたわみの、たわんでできた間隙にずぶずぶともぐり込んでくる、蛭や蛆虫のようなものなのだな、と改めて思った。ファルマンを見ているとよく分かるが、本当に隙のない、高まるところまで高まった孤高の存在には、友達なんてぜんぜん必要ないのだ。そんな邪なものたちが近寄ろうにも、ファルマンという存在には、掴まれる突起がひとつもない。それはもはや完全なる球体に近く、そして発光してさえいる。神々しいまでである。もちろんそこまでの境地には生半には至れるものではない。
 僕に友達がいないのは、人生中で出会ったどの人物も、難攻不落のこのコース、すなわち俺レースをクリアできなかったということだ、ということをこれまでしばしば口にしてきた。つまり僕もまた、それなりに表面がツルツルとした、よくできた造形のほうなのだと思う。でもファルマンほど完璧じゃない。よく見ればあちこちに凸凹があって、その凸凹は傍目にはなかなか見えづらく、だから他者はそれに気づかない。でも僕は本人なので、その凸凹のことをよく知っている。知っていて、とても気にしている。コンプレックスと言ってもいい。だから時折その凸凹を埋めたいと切望して、友達を求めてしまう。友達とは、心の凸凹を均すセメントなのかもしれない。
 でもセメントは後付けのものなので、きちんとメンテナンスしないと、すぐに摩耗して、劣化する。それが、いたはずの友達がいなくなるということだ。そのとき、セメントはセメントだけで滑落すればいいものを、埋めていた心の一部を荒らしていったりする。そうすると余計に心には凸凹が醸成される。
 だからやっぱり、理想はファルマンのように、自力で心を球体に近づけることだ。自分は裏切らない。筋肉だって栄養を与えていなければ消え去ってしまうのに対して、自分だけは本当に裏切らない。だから僕は自分をもっと高めていこうと思った。この1ヶ月、自分のブログばかりを読んで、それはとても愉しい時間で、それでそう思った。
 そして僕の僕らしさ、僕という人間のテーマというのが、「友達について、そのいなさについて」だったりするから、この話はややこしくなるのだった。僕の精神はいつ、4人くらいに分裂して、みんな僕の友達になってくれるのだろうか。

2018年10月17日水曜日

友達がいない風景・4

 「僕とLINEの登録者数で300人の開きがある」でおなじみの三女が、今日誕生日なのだった。なぜか僕のタイムラインにはそのことが表示されず、しかしまったく表示しない設定にしているわけではないらしく、ファルマンの画面には表示されていて、どういうことだろう、疎外されているのかな、と少し思った。
 それでも誕生日であることを知ったからには、と思い、お祝いのメッセージを送った。こういうところだ。こういうところから人間関係は広がっていくのだと思う。義妹に義兄が誕生日祝いの言葉をかけて、一体どんな作用で人間関係が広がるのかはさっぱり分からないが、それでもしないよりは望みがある。こちらは藁にも、それどころかニュートリノにさえもすがる思いなのだ。
 LINEのタイムラインの「パピロウさんがお誕生日です」の画面と言えば、「友だち0人、9月20日」というフレーズが記憶に新しいけれど、実はその表示に対して、この義妹だけが「いいね!」をしてくれたのだった。そこはさすが315人(たぶん現在はもっと)のLINE友達がいるだけのことはある。そして僕の誕生日メッセージに対する反応はそれっきりで、他の人の誕生日メッセージで見られるような、友達からのメッセージカードみたいなものは一切なかったのだった。それはいい。別にいいのだ。あってしかるべきではないかとも思うが、なにしろ分母が小さすぎる。そもそもの分母が小さいし、15人のうち8割以上は、親類か、仕事上の付き合いの人なのだ。だから仕方ない。
 それで、それじゃあその点、友達300オーバーの義妹なんかにはどれほどのメッセージカードが届くのか。これは大いに気になるところである。しかしながら前述のとおり僕の画面には誕生日の通知が表示されないので、ファルマンのタブレットをわざわざ借りて確認した。すると、義妹に誕生日のメッセージカードを送っていたのは、22時現在までのところ、義妹とともに暮している母親だけだった。しかもメッセージ内容は、「帰ってきてくれてありがとう」だった。
 それを見て、ヒヒヒッ、と邪悪な笑いが口から漏れた。さらには「あー、溜飲が下がったわ」としっかり口に出して言った。
 僕のその様子を見てファルマンが、「人のそれを見て溜飲が下がったとか言う人には、友達はいつまでもできない」と言った。
 友だち0人、9月20日。誕生日という行事には、人の本性を暴き、白日の下に晒す性質があるのかもしない。友達が欲しい。僕に友達が増えるか、あるいは友達が多い人の友達が僕のレベルまで減ればいいと思う。それならそれでいいのだ。

2018年9月20日木曜日

友達のいない風景・3(35歳の誕生日)

 誕生日の朝は眠りが浅くなる。零時前に寝て、2時38分にふと目を覚ました。枕元のガラケー(機能付き目覚まし時計)で時間を確認した。もちろんガラケーにメッセージなどなかった。来るはずがない。だって僕にはタブレットがある。全部あっちに行ってる、と思って再び寝た。
 起きて出勤の準備をしながら、タブレットでLINEを開く。タイムラインに、「ハッピーバースデー!」という画像がデデンとあった。これは一目瞭然。じゃあもうみんな祝福のメッセージをくれるはずだよ。くれないと嘘だよ、と思う。ただし朝の時点では誰からも来ていない。それはそうだろう。まだ早い。朝はそれでなくてもみんなバタバタだろうし、なにしろ僕への祝福メッセージだ、文面だって凝りたくなるのが人情というものだ。そういうの、わかってあげたい。待つよ。23時59分まで待つよ。
 誕生日の天候は雨だった。細かく激しい雨で、視界がとても悪かった。今日だけは交通事故で死ねない、と思いながら出勤した。出勤して、始業前に、もちろんタブレットをチェック。普段はこんなにこまめに確認する人間ではないが、今日は仕方ない。メッセージはゼロ。
 ファルマンに、
「おかしいな……?」
 とメッセージを送って仕事に入る。
 昼休みになり、一目散にタブレットを開く。メッセージが来ていた。母からだった。
「自分の子どもが三十代半ばなんて信じられない」
 と、この人は僕が三十代になってからは毎年それを言う。
 それきりだった。
「俺の友達、みんな失明してんのかな」
 とファルマンにメッセージを送る。
「友達なんて人間界一の幻想」
 というメッセージが返ってきた。
 そのまま無為に時間が過ぎた。職場にもLINEの交換をした人はいるわけで、その人たちにチラチラと視線を送るが、こちらに向かって働きかけてくる様子は一切ない。どうも変だ。昼休みの終わり頃になってようやく思い至り、
「君のタイムラインに俺の誕生日の知らせって届いてる? これ非公開になってんじゃないの」
 とファルマンにメッセージを送った。
「こんなはずないもの」
 とも続けて送った。
 返信はなかった。
 午後の休憩でみたびLINEを開くと、トークの右上に赤丸がついて、そこに「5」の表示があり、やっとか、と思う。
 開いたらすべてファルマンからだった。
「タイムラインどうやって見るかしらんし」
「人のそんなん気にしたことないし」
「見たけど幼稚園のママがキャンペーンにエントリーしてる情報しか出てないよ」
 などという報告だった。
 やっぱり出てないのだ。慌てて設定をいじろうとするも、どうやればいいのかさっぱり分からない。とにかく現時点で出ていないのだ。全身を悪寒が襲った。打ちひしがれた。たとえこれから設定を変えて出せたとしても、本来なら零時に表示されなければ恰好がつかない。それに義妹とか、僕以外の友達が極端に多い人だったら、半日で無数に連なるタイムラインのせいで、僕の誕生日の知らせなんてあっという間に下のほうに行ってしまうではないか! もう遅いのだ! 1年にいちどのチャンスなのに、完全に失敗した! そしてだとすれば母はタイムラインとか関係なくメッセージを送ってきたのだ! そう考えると余計に哀しい。仕事をしながら、万感の思いがこみ上げて来て、嗚咽しそうになった。
 夕方になり、退勤時間になって、もちろんすぐにタブレットを開く。誰からもなんにもない。まさか僕の誕生日はこのまま終わるのか……? ファルマンに帰るコールのついでに、
「どうすれば友達のタイムラインに誕生日の知らせが表示されるのか今すぐネットで調べてよ!」
 と懇願する。夕飯の準備等で忙しいのか、むげに断られた。ひどい。
「じゃあ俺、車を運転しながらタブレットを操作するよ! 危ないよ!」
 と脅すが、
「それで死んだらとことんバカだよ」
 と妻はどこまでも冷たかった。相手が悪かった。相手は友達の観念が我らとは違う、化け物なのだ。僕がどうしてこんなに汲々としているのか、この化け物にはさっぱり解らないのだ。ちくしょう、と思った。夫婦ふたりで、0×0の掛け算をしているかのようだ。
 帰宅してから、ファルマンのタブレットを奪って確認するが、やっぱり表示されていない。なんでだ。もう僕はLINEからも見離されてしまったのか。LINEで友達ができると思ったら、LINEは友達がある程度いないと受け入れてくれない、そんなフットサルのような狭量な世界だったのか。
 いろいろ探って、こんな表示が出る。


 なんて哀しい杉村だろうか。LINEによる雑な設定のパーティー帽子がこんなにもピッタリ嵌まっているというのに、帽子を被って待ち受けているのに、会場には自分以外誰もいないのだ。それは「わっかんねーよ!」と言いたくもなる。俺もなんでこんなことになったのかぜんぜんわっかんねーよ! そしてなにより「友だち0人・9月20日」というコピー。バカにしてんのか。ずいぶんいいコピーじゃねえか。糸井重里が考えたのか。
 それから最後の手段として、友達314人(あれから友達の結婚式に何度か出ているようなので、もっと増えているのだろうと思う)の下の義妹に、
「自分が今日、誕生日だってことをみんなに知ってほしいのに、いろいろやってもタイムラインに表示される様子がないんだけどそうすればいいんだろう」
 と質問する。
「じわる~」
 というスタンプが返ってきた。
「じわるとかじゃなくて」
 と超高速で返信した。じわらせようとしてるんじゃない。義兄は切実なんだ。
 それで、たぶんこういうことじゃない、みたいな設定の変更の手順を、スクリーンショットで説明してくれる。言葉で説明するのではなく画像というのが現代的だな、さすがだな、と思った。
 それですぐに言われたとおりにする。その結果、
「あ、出てるで!」
 ということで、どうやら出たらしい。でもファルマンのタブレットのタイムラインには相変わらず表示されない。なんでだろう、と思うが、これはきっと、ファルマンだからだと思う。LINEはそういうの選別するんだと思う。ファルマンには人の誕生日を教えてやらないんだと思う。はぶってんだと思う。ファルマン以外の人のタイムラインには表示されたんだと思う。
 そして、それから3時間ほどが経って。
 今日はあと2時間弱で。
 うん。
 うん……。
 友だち0人・9月20日。
 ちょっと気に入った。俺のキャッチフレーズにしようかな。

2018年9月10日月曜日

友達がいない風景・2

 前に職場で同僚と、僕の出張の話をしていて、出張はどうなの、と訊かれたので、「最初のうちは人見知りだから緊張したけどだんだん慣れてきた」と答えたら、「パピロウが? 人見知り?」と、きょとんとした反応をされ、こっちのほうがきょとんとした。
 それで今回の出張の際、出張先の人とお酒を飲んでいて、「人見知りだから友達ができない」という話をしたら、その人からも、「パピロウが人見知り? 最初から気さくに話してたじゃん」ときょとんとされて、やはりきょとんとしたのだった。
 どうやら自分が思う自分と、他人が見ている自分は、だいぶ違うようだ。
 ──という話を夕食のとき、ファルマンに向かって話した。そうしたらファルマンは、無言で立ち上がり、台所のシンクの所へ行って、おもむろに手を洗って帰ってきた。それで「どうしていま手を洗ったの?」と訊ねたら、「……あれ? 私、どうして手を洗ったんだろう」と自分で不思議がっていた。そして「たぶんいまのあなたの話のせいだと思う」、と妻は言った。心の中にぞわりと、静かで激しい感情が湧き上がったらしかった。
 「君はこういう風に、自分の思う自分と他人の思う自分が違うってことないんだ?」と訊ねたら、「ない」と即答された。僕の話も別にぜんぜん華やかな話ではないはずだが、本当の人見知り、本当のコミュニケーション能力欠損者は、このレベルの話に対して、食事中に思わず手を洗いたくなってしまうものらしい。手を洗うというのがリアルで気色悪い。さすが本物はすごいな、と思った。
 しかしどっちが正しいんだろう、という気もする。ファルマンに言わせれば僕は似非コミュニケーション能力不足者ということになるが、対話者にとって気さくな人柄でありながら友達ができないのだと考えると、そこには殊のほか根深い問題があるような気がする。僕にはもう、友達作りに関して、伸び代がないということにはなるまいか。それに対してファルマンのような人間には、「まだ一歩目を踏み出していない」という希望が残されている。踏み出したところで友達ができる可能性は極めて低いが、それでもゼロじゃない。ゼロじゃない妻が羨ましい。憎い。手を洗いたくなってきた。

2018年9月9日日曜日

友達がいない風景・1

 ちょっとした間に、タブレットの電源を点けて、LINEを開く。誰かからメッセージが届いていると、LINEのロゴが表示されるくらいのタイミングで、タブレットが振動する設定になっている。もちろん大抵の場合は振動しない。大抵の場合はそうなのだが、なんとなく気落ちする。LINEのホーム画面の上部には、「友達」「トーク」「タイムライン」とアイコンが並んでいて、誰かからのメッセージがあると、「トーク」の所に赤い丸がついて、メッセージの数が表示される。振動しなかったのだから来ているはずないのだが、そこに赤丸がついていないのを見て、また改めて気落ちする。友達と言ったって、親類と職場の人間がほとんどなのに、それらから一体どんなメッセージが送られていたら嬉しいというのか、という話なのだが、それでもやっぱり気落ちするのである。それで、ため息というほどではないけれど、鼻から深く息が噴き出されたらしい。すると、鼻の穴の中で、鼻毛にかろうじて引っ掛かっていただけの鼻くそが、その風圧によって、鼻から飛び出した。そして2ミリほどのその薄茶色の物体は、タブレットの画面の、「トーク」の吹き出しマークの右上、まさにメッセージが届いていれば赤丸が表示される部分に着地したのだった。それを見て僕は一瞬、こう思った。

「あ、ちょうど誰かからメッセージが来た」

 美川憲一の語っていたエピソードで、まだ彼が売れる前、全国をドサ回りしていた際、いつも安旅館に泊まっていて、食事と言えばごはんと具なしの味噌汁、そして漬物だけだったというが、そんなある日、味噌汁にしじみが浮かんでいるのを見つけ喜んだら、それは真っ平な表面に映った自分の目玉だった、というのがある。
 気落ちした嘆息で飛び出た自分の鼻くそを、誰かからのメッセージ到着通知だと勘違いするのって、なんかこの美川憲一のエピソードに似ているな、と思った。
 自分がどうしてこんなにもフットワーク軽く、美川憲一の下積み時代のエピソードを思い出せるのかは謎に包まれているけれど。

2018年8月10日金曜日

友達についての思索・20

 夏のひとり暮しがぼちぼち終わる。淡々と過ぎた。
 家族を見送ってすぐに書いた「おこめとおふろ」で、この心の間隙は友達に埋めてもらおうかな、ということを書いた。友達というのはこんなガバガバな感情を受け止めてくれる便利な存在だから、と。もっとも特定の友達が、友達というのは往々にして同世代であるものだから、友達にも友達の家庭があり、たまたま自分がこうしてひとりぽっちになったとしても、友達の家庭はそうではなく、家族がいるのでそんな自由には誘いに乗れない、ということは十分にあると思う。しかし友達というのはひとりではない。LINEに登録してある友達に片っ端から声を掛けたら、200人のうちの5人くらいは、大抵いつだって誘いに応じてくれる。だからこんなときはその5人と会えばいい。こういうのは持ちつ持たれつで、立場が逆だったとき、もちろん自分も誘いに乗れない場合のほうが多いけれど、たまたま応じることのできた5人の側になることがある。そのようにして、友達が多い人々(友人)というのは、心の間隙を埋め合っている。互助組織なのである。その互助感が嫌。田舎っぽい。昔っぽい。ここは飢饉で生活が立ち行かなくなる寒村ではない。間隙ができたのなら間隙ができたで、それを埋めるために必死になるのではなく、そういうものと受け入れればいいではないか。ぽっかりと空いた間隙を損失だと思う心が、僕は前からこれを言っているのだけれど、損をするのを厭う精神、つまり不損の精神、すなわち不遜へと繋がっていくのだと思う。なるほど友達が多くて強気になっている、社会を支配した気になっている奴らの、傲岸不遜さというのは、こういう部分から来ているのだな、と納得する。だからやっぱり僕は友人と闘わなければならない。
 ところで妻子だけの帰省でも、あるいは妻だけ里帰り出産でも、夫をひとりにすると浮気をする、というイメージがある。それはひとりぽっちの寂しさをまぎらわすため、という理由からのイメージであるわけだが、そこで異性と浮気をしない代わりに友達と遊ぶのだとしたら、友達と遊ぶこともまた浮気の一種だと言えるのではないか。「恋人ができると友達づきあいが悪くなる」という通説があり、それはどうしたって事実なのだけど、それこそが友達づきあいは恋愛の代替であることの証左だ。そうなのだ。友達と遊ぶことは浮気なのだ。異性間の友情って成立するかどうかではない。浮気じゃない友情なんて存在しないのだ。だってそうだろう。じゃあ逆に、なにが友情でなにが浮気なのか。夫が男友達とペニスフェンシングをしていたら、それは友情か浮気か。夫が女友達とふたりきりで映画を観に行ったら、それは友情か浮気か。その区別はつけようがないだろう。だから、家族以外の人との交遊は、すべて浮気なんだと思う。阿呆め! 淫売め! だから友人は嫌い。

2018年8月3日金曜日

友達についての思索・19

 僕の不倶戴天の敵、一生かけて闘い抜くと決めた相手、友達が多い人。それをなんと呼ぶかというのを昨日から考えはじめて、今日ふとした瞬間にひらめいた。
 
 友人。

 友達が多い人。友達に依存している人。友達といることで大きな気持ちになっている人。友達といることで心に余裕がある人。友達のことを大事に思う人。友達の存在こそが自分を成り立たせていると思うし、自分自身も友達にとってそういう存在でありたいと願う人。友達人。
 これらすべて、略せば友人なのである。自分が生きる自分の人生であるはずなのに、そこへ異様なほど友達の成分を含ませようとして、自分の人生を薄めることに尽力するという、摩訶不思議な性質を持った人種。それが友人。
 友人という単語はもちろん元からあるもので、辞書で引くと「ともだち。朋友」と、とても簡素に書いてある。素直に友達の項を引けよ、という感じで、友人そのものには大した意味が与えられていない。実際あまり使いどころがない。友達よりも友人のほうが大人びた感じ、偏差値の高い感じはある。でもLINEで、親戚や上司なんかも友達と言ってしまう現代である。友達だとちょっとざっくばらんすぎて微妙だからこの場面では友人という言い回しを使おう、なんて細かい気配りは、もう地上から滅殺してしまって、友達はすべて友達でいい。
 そして完全に使い道がなくなった友人は、僕がもらう。もらって、嫌う。嫌うためにもらう。友人、よく来たね。僕は君のことが嫌いだよ。友人は気さくな性格だから、僕のことも友達だと思っていたかもしれないね。違うよ。僕は友達じゃないよ。びっくりした? 友達にこんな風に裏切られるとは思っていなかった? でもそれは僕も同じなんだよ。僕の人生の敵が、まさか友人だったなんて、思いもよらなかったよ。
 僕と友人の長い闘いは、ここから始まる。

2018年8月2日木曜日

友達についての思索・18

 思えば僕は無意識のうちに、そのことを分かっていた。


 というロゴがある。「友達は友達に向かって友達のことを話す」である。これがTシャツの前面にプリントされた場合、背面の首元のあたりに、「ALTHOUGH I DON'T KNOW THAT FRIENDS」というフレーズを置きたい。とは言え俺はその友達のことを知らない、である。知らないのである。興味がないのである。なのにこいつはこいつの友達の話をするのである。友達が多い人の、そういうところが嫌い。嫌いで、思わずロゴにしていた。実はそれくらい、嫌悪の所在地は把握できていたのだ。それがいつからか、俺も友達が欲しい、にすり替わっていた。おそろしい。友達ドラッグのおそろしさを目の当たりにした気がする。友達って、いるとそれだけで、存在感や多数決など、集団の中で強者になれるので、そうじゃない側からすると、友達がいる状態にある人々のことが無性に眩しく見えたりするのだけど、実際はそんなことないと思う。単細胞生物が、一個の細胞だけで生きて、それそのものが命であるのに対し、多細胞生物は、細胞という個の集合でありながらひとつの存在となり、その巨大なひとつの存在を保つために、末端の一細胞なんかは簡単に捨てられる感じがある。それが友達になるということだと思う。そしてある瞬間に粗末に排斥されるかもしれない恐怖が、彼らには常に付き纏うので、彼らはいつだって無理に華やごうとする。華やぐことで、自分が排斥される側から排斥する側になろうとするのだ。それならそれでいい。見苦しいがそれが彼らの生き方だ。しかしその情動の発露として、知らない友達の話をこちらにしてきたりするから、そういうところで彼らは僕の嫌悪の対象となる。
 いよいよ突き止めた、僕が一生かけて闘うべき天敵、友達が多い人。これに名前をつけたい。「友達が多い人」だとしまりがなくて、闘う相手として対象を捉えづらいのだ。とことん争うために名前をつける。そんな命名もある。
 友達人、というのが最初に浮かんだ。ともだちじん。そのまんまだ。そのまんますぎてなんにもおもしろくない。次に、友達のことを「ダチ」と呼ぶところから、ダチジンというのはどうかと思った。文字で表すと達人。闘う相手が達人というのは、ちょっと気持ちが盛り上がる。保留。もう何日か考えようと思う。生涯の敵の名前なので、そう簡単に決めるわけにはいかない。

2018年8月1日水曜日

友達についての思索・17

 この記事が友達についての思索のターニングポイントになると思う。
 喝破したのである。
 僕は友達が欲しいんじゃない。
 だって具体的にどんな友達が欲しいのかと言えば、明確に浮かばないのだ。キムチ鍋を一緒に食べて、くだらない猥談を延々とできるような、そんな友達がいたらいいなあ、などとぼんやり思ったりもするけど、キムチ鍋が執り行われるその部屋は分厚い霞の向こう側にあり、とてもぼんやりとしている。どういう契機でそんな交遊が生まれるのか想像もつかないし、そもそも友達とは、こちらの「こういう友達」という注文にピタリと嵌まるものがどこかから届けられるような、そういうものでもないだろう。キムチ鍋猥談が途轍もなく愉しかった夜もあれば、知らないジャンルの音楽のライブに誘ってきて、僕が断ったら別の方面の友達と行くことにして、ああこいつは、僕よりもその別の方面の友達とのほうが気が合うと感じたんだろうな、こうして今後、また僕と遊ぶことがあったとしても、いつだってこいつの頭の中には、向こうの友達のことがあるようになるのだろうなと思う夜もあるだろう。そういうことを考え出すと友達って煩わしく、本当には欲しくない、などと思う。
 でも、それじゃあ友達が欲しいのでなければ、僕のこの、定期的に去来する友達という存在に対する激しい感情の正体はいったいなんなのか。それをこのたびついに突き止めた。
 それは、友達が多い人間が嫌い、という思いだった。
 結局のところ、僕がこれまで「友達が欲しい……」と地団駄を踏む精神状態に陥っていた場面というのは、僕以外の人間たちの和気藹々を目の当たりにしたときであり、それによって込み上がる気持ちを、彼らのようになりたい、彼らのように友達が多い人間になりたい、という欲求だと勘違いしていたのだけど、実はそうではなかったのだ。僕はただ単に、彼らのことをムカついていただけだったのだ。別に僕自身が友達を欲しいわけではないが、友達が多い人間というのがとにかく嫌いなので、その様に対して激情を沸き上がらせていたのである。
 そのことに、昨日ようやく気付いた。長い旅だった。迷走ばかりの旅だった。この旅の大部分において、僕は自分が友達を欲しがっていると勘違いし続けていたのだ! なんという錯誤だろうか。そんなわけあるか。友達なんていらない。僕はただ、友達が多い人が嫌いなだけだ。世の中のありとあらゆる友情関係が消滅してほしいだけだ。自分に友達がいないことにはなんの変化もなくていい。ただ友達の多い人の周りから友達が消え去ってほしいだけなんだ。そうすれば僕は満足なんだ。友達たちが愉しそうだから、僕はいつまでも気持ちが休まらない。

2018年7月27日金曜日

友達についての思索・16

 友達ができない。なぜこうもできないのか。
 LINEのやりとりもさっぱりだ。実は岡山の豪雨を心配してくれた東京時代の知り合いが、携帯電話のショートメールで「大丈夫だった?」的な連絡をくれて、ああこれが東日本大震災のときとかにもさんざん繰り広げられた「絆」っていう例のやつだな、と感じ、感じ入って、「大丈夫です。ところで僕、LINEはじめたんですよ! アドレスはこちらです!」と、とてもアグレッシブにLINEの友達を増やしたのだけど、その相手とも、それから互いの子どもの成長などをちょっと報告し合ったあとは、ぜんぜんやりとりをしていない。子どもの話くらいしか話題がないので、それが尽きたらもうどうしようもないのだった。なぜこうも、人となにかを語り合うのが、難しくなってしまったのか。
 僕の数少ないLINEの友達の中で、友達が多いタイプの若者の様子を探ると、彼らというのは得てして、タイムラインの通知をオフにしていない。気に入った投稿であるとか、ホーム画面の変更であるとか、ぜんぶ知らせてくる。びっくりする。そそそそんな自分の内向きの話をこちらに公開されても、こここ困るよ、と思う。どう捉えていいのか分からず、本当に頭が混乱する。あの通知をオフにすることは、満員電車で画面に除き見防止シートを張るのと同じようなことだと思う。自分の興味をそんなあけっぴろげにして、どうするつもりだ、と思う。どうするもこうするも、見た人が「僕もそれ好きなんだよ」「よかったよね、それ」「ウケる」などと反応して、そこからやりとりが生まれるのである。やりとりのとっかかりなのである。ボルダリングで言えばビギナーコースというくらい、彼らにはとっかかりがある。だから攻略が簡単。以前、僕に友達ができないのは、難攻不落の俺レースを誰もクリアできないからだ、ということを主張したことがあった。それで言うと、僕の友達ボルダリングのコースには、あのとっかかりがほとんどないし、あったとしてもすごくおかしな場所についているのだ。だから誰もそれを掴めない。しかもやっとの思いで掴んだら、それは偽物で、握った瞬間にぐしゃっと潰れたりする。そして、それほどの難コースを攻略したとして、特段のメリットがあるかと言えば、そんなことはない。賞品もなければ達成感もない。だったら和気藹々とビギナーコースで愉しんでいたほうがいい。がしっと掴めるとっかかりがたくさんあって、心地よい。なるほどこうすることによって「友達が多い」状態は保たれるのか、と感心する。とは言え自分がそれをするつもりはない。もっともLINE上で記事を読んだり、ゲームをしたり、なにかに応募したりすることはないので、通知をオンとかオフとか言う以前に、通知する内容がない。心電図で言えばツー、となっている状態であり、だからつまり僕の友達生命活動は既にご臨終なのであり、ここからもしも僕に友達がわんさかできることがあれば、それはもはや復活であり、西暦は終わりにして、新たに僕の生年月日からともだち暦が始まればよいと思う。
 ちなみに、そんなことやったって哀しくなるだけじゃないか、と思いつつ、先日ひそかに、プロフィールの生年月日の欄を入力し、タイムラインに誕生日が表示される設定にした。おめでとう、って言って僕のとっかかりを掴んでほしい。メリットはないけど。

2018年7月14日土曜日

友達についての思索・15

 友達が欲しい友達が欲しいと言って、具体的にどんな友達が欲しいのか、ということを熱心に考えた結果、僕が欲しいのは猥談ができる友達なのだ、ということを喝破した。なんかね、結局のところ、僕は猥談だけ話していたい人間なんですよ。もう本当に、他のなんの話もしたくない。ひと晩じゅうずっと、ちんことかおっぱいとかの話をしていたいのだ。そしてそんな晩が365日、何十年もずっと続けばいいと願っているのだ。そしてそれが結果的に、僕なりの平和への祈願になるのだ。という、それくらいにただひたすらに猥談だけしていたいのだ。明石家さんまはどの番組でも恋愛の話ばかりしていてうんざりするが、僕はそれの猥談ver.であると言える。しかし現状、その欲求はぜんぜん満たされていない。さんまはあんなにもどうでもいい恋愛話をすることで、周囲の人々から全力でヨイショしてもらえるというのに、僕は周囲の反応うんぬん以前に、猥談を話す相手がいない。いるわけねえ。おらの村には電気がねえから信号があるわけねえように、そもそも友達がひとりもいないのだから、猥談を話す相手がいるわけがねえのだ。僕はわりときさくに誰とだって猥談を話したいタイプの人間だけど、いつかやっとできた友達がそういうタイプの人間だとは限らない。「友達」というラインをやっと越えた対象から、さらにふるいに掛けなければならないのだ。ちょっと前に、いつもの(友達が欲しいなあ)ということを考えていたとき、頭の中にふと「親友」というワードが浮かんで、すさまじいショックを受けたことがあった。もう何年も「友達」がままならないものだから、そんな言葉はすっかり忘れてしまっていたけれど、そうなのだ、世の中には「友達」の上位的存在である「親友」というものが存在するのだ。そんな高みのことに思いを馳せると、実際にその高みを仰ぎ見たわけでもないのに、なんだかクラクラした。やっとメタルクウラを一体倒したと思ったら、崖の向こうから何百体ものメタルクウラが出てきたかのような絶望感。猥談ができる友達が欲しい、という願望はそれとまったく一緒だ。と言うか、猥談できる友達とは親友のことなんだろう。だとすれば僕はあれか。「友達が欲しい」のではなく「親友が欲しい」のか。おこがましいわ。親友っていうのは友達汁の上澄みなのだから。上澄みだけ手に入れようと思っても不可能。ネギの青い部分とか、豚の骨の髄とか、そういう一見どうしようもないものを煮込んだ末に、上澄みは発生する。だからやっぱり友達は質よりも量なんだと思う。質よりも量の、ドロドロのぐちゃぐちゃしたおぞましいものから、ほんの少しの親友を得たい。それさえ取ってしまえばあとはもう用無し。まかないにでも使えばいいと思う。友達が欲しい!

2018年7月2日月曜日

友達についての思索・14

 今日はやけに友達がいないことが骨身に沁みる日だった。いつもの「ファッション友達が欲しい」とは違って、今日は切実なやつ。人生全体を考えて、暗澹たる気持ちになって、孤独に打ちひしがれてしまうやつ。たまにそういうときがある。ファルマンにそれを話したら、ファルマンでさえ「ああ、たまにあるよね、そういうとき」と言っていた。あのファルマンでもあるのだから、すべての人類にあるということだ。こういう気分のとき、人はぬくもりを求めて自棄な行動を起したりするのだろう。ならば僕は、そういう状況に在る人々の、宿り木になりたい。あなたが自分はひとりぼっちだと哀しみに浸っているとき、実は心に寄り添っている存在がある。それが僕だよ。僕か、あるいは親鸞だよ。
 そんな今日の夕飯のあと、ポルガがなぞなぞの本から問題を出してきて、その1問目が「殻に閉じこもってばかりで外に出てこないという暗い生き物は?」というものだった。「それは……俺のことだ」と僕は答えたのだけど、7歳の娘は僕の心情なんかまるで慮ってくれずに、「ブー! 正解はでんでん(出ん出ん)虫でした!」と明るく言ってきた。子どものこの残酷さ。さらに2問目が、「道具を使わずに、どんなに嫌なものでも一瞬で消してしまう方法は?」というもので、そ、そんないい方法がなにか存在するのか!? と色めき立ち、本気で考えた結果、「わかった! 目をつむればいいんだ!」と正解にたどり着き、それはたしかに正解だったのだけど、正解した嬉しさよりも、問題とその答えの内容の切なさのほうが心に迫ってきて、思わず目をつむって耳を塞ぎたくなった。
 そうしてしばらくそのままでいて、気が済んで目を開けたら、僕の周りを幾重にも友達が囲んで、みんな笑っていればいいと思った。友達がいてくれたらいいと願うのではなく、その友達たちが笑っていてくれればいいと望むところに、僕の美徳がある。しかし美徳のある人間に、現世は友達をもたらさない。なぜなら友は類によって呼応するものだからである。現世に美徳のある人間など、もう僕しか残っていない。だから僕には友達ができないのだと思う。僕もあなた方のように穢れていれば、あなた方と仲良くできたことだろうに。残念です。

2018年6月23日土曜日

友達についての思索・13

 中国ではスマホひとつでありとあらゆることができるようになっているという話が、最近よく耳に入ってくる。もはやスマホがIDそのものであり、お金のこととか、各種の申し込みとか、全部スマホでするらしい。曰く、中国は国家の成り立ち上、お上に支配されることに対しての人民の抵抗感が低いために、こうまで個人情報をネットワークに直結させることができたのだ、などと言う。たしかに中国人ではない僕の感覚としては、なんとなくその状況に対して抵抗感はある。人生上のありとあらゆることがスマホでできるということは、人生上のありとあらゆることが、政治なり経済なり(そしてこの二者は往々にして結託する)の支配者にさらけ出されるということだ。それは管理じゃないか。そうなるともう人民は、「不穏な動き」ができない。「不穏な動き」とは即ち革命というわけではない。反体制的な発想が、イコール革命へと繋がるわけではない。そんな滾る熱い想いなどないが、国家の管理下からはなるべく逃れて生きていきたいというスタンスが、そういう環境では許されないということになる。そこに強い抵抗感が湧く。スマホを管理されるということは、SNSなどでの人間関係も知られるということであり、実際にもう中国では、SNS上での人脈の広さ、およびその人脈の質(年収とか犯罪歴とか)によって、コミュニティにおけるその人物の相対的な価値が算出され、その価値によって入場が許されるエリアであるとか、受けられる特典とか、そういう差別がなされているらしい。なんておぞましい世界だろうか。それはこれまでもそうだった、ハイクラスの人間にしか許されない領域というのはいつだってあった、というのも事実である。でもそれはこれまで、我々の世界とは地続きじゃなかった。だから関係がなかった。でもSNSの評価での選別は、もうこちらの世界の話だ。我々は、友達を増やさなければならないし、そしてその友達は犯罪など起さない健全な人間でなければならない。そうしないと自分自身の評価が落ちる。これをディストピアと呼ばずしてなんだろうか。これまでも十分にきな臭かった「友達作り」「人間関係作り」「人脈作り」というジャンルは、ここへ来ていよいよ猛烈な悪臭を放ちはじめた。純粋な友情などというものは、もうそろそろ地球上からなくなってしまうのかもしれない。就職のときにもさんざん求められた「コミュニケーション能力」というものが、無事にそのコミュニケーション能力の充足によって社会を組成する側になった人間たちによって、癒着と融合を重ね、とうとう社会に巨大な怪物を作り出したのだと思う。もう人類はコミュニケーション能力充足型の人間しか、まっとうに生きられなくなる。コミュニケーション能力不足型の人間は、このあたりで淘汰され、次の時代に連れていってもらえない。